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連載小説「思い出の後始末」#61隠された真実


第61話 隠された真実


 中浜家の奥様に対する尊敬のあり方は、世代によって違いがあるようだ。中村水産で言えば、おかみさんのヒサさんは実際に中浜家に出入りして奥様の慈愛に直接触れた世代なので、奥様を慕う気持ちが強く残っている。しかし、息子の亮二くんの方は奥様のことは昔の話として聞かされているだけなので、その徳の高さに対する実感は薄いようだ。美彌子さまの名前を出されても、「ああ、あの人」といった程度の反応だった。
 なので、会長との対決を穏便に済ませるよう亮二くんを説得する材料として、「奥様を悲しませないで」というヒサさんの言葉は亮二くんの気持ちにどれほど響いたかは定かではない。
 親子の間で押し問答のようなやり取りが続いた。
 ただ、普段は見せないような真剣な面持ちで熱弁をふるう母親から只ならぬものを感じ取ったのだろう。最後は、向こうが身を引くというのなら、こちらからは仕掛けないというぐらいまで譲歩してくれた。
 若者が良識のある所を見せてくれたのだ。大人達もそれに応える気概を見せてくれるはずだと思いたくなるが、やはり世の中そう単純に事は運ばない。
 中浜家訪問のあと、僕は単独で会長と2回ほど言葉を交わす機会を持った。
 僕の淡い期待に舌を出すように、会長は家で見せた紳士的な態度とは打って変わって、高圧的でこそなかったものの、不愛想な応対で僕を戸惑わせた。
 会長は何を考えているか分からない人だから過度の期待は禁物という、ヒサさんの忠告通りの展開となった。
 しかし、こちらも必死だ。若者の方に道筋をつけてしまった以上、何とか退任の言葉を引き出さなければならない。奥様には申し訳なかったが、会話中何度も「美彌子さまが」という殺し文句を使わせてもらった。
 奥様の名前が出るたびに会長は嫌な顔をしていたが、強く反論できないようだった。確かに、効果はあった。
 「あの人には悲しんでほしくない」という言葉をポロッと口にした。
 直接的に辞任を仄めかす言葉ではないが、中浜家で二人のやり取りを見ていた僕の中では、十分に目的を達したと思えるひと言だった。
 ただ、ヒサさんや亮二くんに「会長の明言取りました」とはっきり言えないのが辛かった。僕の報告を聞いてる間、二人は不安そうな顔をしていた。
 僕にしても100%の自信があるわけではない。それでも流れ的には「大丈夫です」と言わざるを得なかった。「責任」の二文字が石になった子泣き爺のように僕の肩に重くのしかかってきた。
 そして、夜が明ければ朝という道理の通り、組合員と顔役たちの話し合いの当日はあっという間にやってきた。
 天気は上々。こちらの緊張をよそに、空はあっけらかんと晴れ渡り、凪いでいる真っ青な海はどこまでも機嫌よく、のんびりと広がっていた。
 漁港の市場の二階の会議室。いつもはがらんとしていて仮眠をとるのに丁度よいこの部屋が、今日は、この町にこんなに人がいたのかと思えるぐらい、見たことのない顔でぎっしりと埋まっている。
 前方のひな壇には長老格の顔役が3人揃っており、格の違いを見せつけるためか、時折笑い声を上げながら雑談をしている。ひな壇真ん前に陣取っている亮二くんを筆頭にした若い漁師たちが、思いつめたような顔で押し黙っているのとは対照的だった。
 ひな壇の真ん中、会長の席だけがぽつんと空席になっていた。歌舞伎役者のように花道を見得を切りながら登場してこようという魂胆なのだろうか。  それでも、現れてくれるだけましなのだが……。
 会場がざわつき始めている。ヒサさん率いる婦人連と一緒に会場の中ほどで待機している僕は、落ち着きなく周囲を見回していた。
 学校の教室のように前と後ろに入り口のドアがある、その会議室の前方ひな壇の横にある引き戸が開いて、ついに会長が顔を出した。
 会長の登場をもって、会場が一瞬にして静まり返った。
 会長から何か重大発表があると聞き及んでいるのは、ほんの一握りで、あとの大多数は若い組合員と顔役たちの対決を野次馬的に見てやろうとして来ている。いずれにしても、この会場の全員が、これから何が起きるのかと、無駄話も忘れて固唾を飲んで見守っていた。
 会長は、ひな壇の年寄りたちに軽く会釈をすると、席に着き、寛いだ表情で前を向いた。
「さて、おれは何をすればいいんだ。何もなければ、帰るぞ」
 は?
 会長の予想外の第一声に、最前列の亮二くんと斜め前のヒサさんが同時に振り返って僕の顔を見た。
 僕は反射的にその場で立ち上がってしまったが、言うべき言葉を持ち合わせておらず、ただ周りの人を不審がらせただけだった。
 会長が含み笑いをしながら、僕に向かって、手ぶりで座るよう指示した。
 やられた。趣旨返し。会長の辞任の意思をはっきりさせるために、奥様の名前を何度も出して会長を困らせたことへの仕返しだ。やはり、一筋縄ではいかないじいさんだ。
「議事も何も用意されてないのか。会議にならんな」
 会長は最前列の若い漁師たちに皮肉を込めた視線を向けた。ひな壇に並んでいる年寄りが鼻で笑った。
「こんな体たらくだから、お前らには任せられないんだよ」
 会場がざわつく。どこからか、「自由討論の場だろ」という声が上がった。
 僕は亮二くんたちの背中を見ながら、会長の挑発に乗って事を起こしてしまうのではと、ハラハラしていた。
「この港の重要な運営を、こんな奴らに預けるわけにはいかんな。(怒号が上がる)……まあ、黙って聞け。そうはいっても、そうは言ってもだ」
 あっ、この流れは、ひょっとしたら。
 奥様の言葉が蘇る。「あなただって、最初はみんなに心配をされて……」
 会長の次の言葉に期待して、僕は思わず中腰になった。
「色々と考えて、迷いもしたが、このあたりで……」
「返して!」
 会長の言葉を遮るように、突然会場に響き渡った声に皆が騒然となった。
「返して!」
 会場の後ろの入り口付近で女性がそう声を上げ、周りの人だかりが崩れた。
「ねえ、返してよ。和樹を返してよ!」
 ヒサさんが立ち上がり、女性の方に向かおうとするのが目の端に見えた。
 叫んでいたのは、漁港で死んだ和樹の母親だった。髪は乱れ、服装にも表情にも生気がなかった。息子を亡くした時から彼女の中の時計が止まってしまっているのが、目に見えてわかる。
「お願いだから、和樹を返して……」最後は気を失いそうなか細い声だった。
 その和樹の母親の今にも倒れそうな体を、後ろからグッと支えた者がいた。
 ヒサさん? いや、違う。
 建夫。ゴミ屋敷の建夫さんだった。なぜ、ここに彼が?
 会場から期せずして、女性の悲痛な叫びに同調する声が上がった。声はひな壇にいる会長以下の顔役たちに向けられていた。
 様々な罵声が飛び交う中で、ひときわはっきりと響き渡った言葉があった。
「人殺し!」
 会長が椅子を蹴とばすように立ち上がった。
「誰だ! 今、言ったのは誰だ!」
 激高して震える会長の声に、凛とした声が答えた。
「おれだよ」
 全員が和樹の母親を支えている建夫さんを見た。
「もう一度言おうか? 人殺し」
「建夫、お前、ふざけたことを……」
 会長の歯ぎしりの音がここまで聞こえてきそうだ。
 人殺しという言葉を投げかけられたひな壇の年寄りたちの反応は様々だった。会長は立ち上がり、顔を真っ赤にして建夫さんを睨みつけている。すぐ横にいる最年長らしき老人は青ざめた顔を強張らせており、他の二人は俯いてしまっている。
 会場の中から、「お前らが和樹を殺したんだ」と声が上がり、「そうだ、そうだ」とそこに集団心理が働き、普段偉そうにしている顔役のつるし上げにかかった。
「何を言うか! 我々は和樹が一人前の漁師になれるように……」
 会長の釈明の言葉も、無責任な罵声にかき消されてしまった。
 こうなると、誰の手にも負えない。最前列の亮二くんが立ち上がり、会場を落ち着かせようと声を張り上げたが、ひな壇と一緒くたにされて罵声を浴びせられた。ヒサさんにも僕にもどうすることもできなかった。
 会長の辞任会見になるいい流れが完全に断ち切られた。
「みんな、静かに!」
 腹にずしりと響くような重低音が無秩序に混乱する会場全体を震わせた。 その波動が草木をなぎ倒すように会場を吹き抜け、一瞬にして立ち上がっている者がいなくなった。
「今からおれが話すことを、聞いてくれ」
 建夫さんだった。建夫さんの低く通る声は、そうだ、僕の夢に現れて謎の言葉を吐く髭面の海賊の声そのものだった。『きみをもらったよ』
「そこにいる奴は、二重の意味で人殺しだ」
 二重? 罪に重みを持たせるような言葉に皆興味津々だった。
「ひとつは、今、皆が怒っている、和樹を死に追いやったこと」
 まだ他にあるのか?
「もうひとつは、昔、ある人を死に追いやったことだ」
 え? 誰のことだ、それは。
「そして、それを、そのことを、なかったことにして、死んだ人を皆の記憶から抹殺したことだ。死んだ人を二重に貶めた」
 会場が静まり返った。皆、建夫さんの言葉を理解しようと真剣になっている。
「建夫」会長が興奮を押しとどめたようなこもった声で、建夫さんの名を呼んだ。
「なあ、建夫。いいか、お前は何も知らないんだ。昔のことなんか、お前が知るわけないだろう。憶測で物を言うな」
 建夫さんが傷で引き攣れている口元をさらにゆがめて、笑った。
「うちの婆さんが、証人だよ。全部知っている」
 建夫さんの口から、スエさんの名前が出た。僕は思わず生唾を飲み込んだ。
「うちの婆さんも悪い。知っていて口をつぐんでいた俺も悪い。しかしな、あくどさにかけては、あんたらの方がずっと上だろう。いいか、よーく思い出すんだ。庄司家の」
「やめてくれ!」
 ひな壇で真っ青な顔をして体を震わせていた最年長の年寄りが、大きな声で叫んだ。会長がとっさに、腰を浮かせている老人を椅子に押さえつけようとした。
「いいや、やめない。アヤさんだ。庄司家のアヤ。忘れられない名前だろう」
「もういい。それ以上は、やめろ」
 今度は会長が声を上げた。
 会場がざわついた。それ誰? アヤさんって? 庄司さんの。ああ、猫屋敷の。死んで化けて出るとか。殺されたのか。昔の人よね。伝言ゲームのようなざわめきは続いた。
「何度も言うが、やめない。こっちは覚悟してるんだ。庄司のアヤさんを、死に追いやったのは、お前らだ。アヤさんを襲って、妊娠させたあげく……」
 うわっという声がひな壇から上がった。見ると、老人が頭を抱えて机に突っ伏している。
「違う、ちがう! やってない。自分で、死んだんだ。彼女が勝手に崖から飛び降りたんだ」
 老人の言葉を無視して、会場の誰もが崖から突き落とされる女性の姿を想像していたに違いない。僕は、そう思う。
「おい、建夫。お前、自分で何を言っているのか分かっているのか」老人の背中をさすりながら、会長が冷静に反論し始めた。
「適当なことを言って、我々を貶めるのはやめろ。崖から落ちたのは、事故だったんだよ。警察に調書がある。それに、女性を襲ったとか、いい加減なことを言うのはやめろ。妊娠? 笑わせるな」
「証人がいるといったろ」
「あ? 証人? お前んとこのボケたばあさんがか? ここに連れて来れるのか。え? ばあさん、しゃべれんのか?」
「何だと!」建夫さんが顔を歪めている。
 会長はあくまでもこの話をなかったことにして、昔の話として風化させようとしている。綾さんの存在を、なかったことに。長年部屋に閉じ込めさせておいて、あげくの果てに……。
 それは、ダメだ! 僕は夢遊病者のように立ち上がり、口を開いた。
「生きてるんですよ。その時の子が。妊娠させられたアヤさんの子が、今も生きているんですよ」
「生きてるって?」
 その言葉は、建夫さんが言ったのか、会長が声を上げたのか、会場の誰かが言ったのか。
「うそだろう。生んだのか?……」
 声の主は頭を抱えていた老人だった。「生んでないはずだ。そう聞いた」 老人の目は虚ろで、自分が何を言っているか分からないようだった。「生んだのか……。いや、おれは見張り役だったんだ。一番下っ端だったから。おれはやってないんだ。本当だよ。やったのは」
「もういい」
 会長が老人を会場の目から隠すように、あるいはそれ以上喋らせないように、自分の体で覆った。
 当然、皆が納得するわけがない。「逃げるな」「最後まで言わせろ」というヤジとともに、今にも暴動が起きそうだった。
 こうなると、敵も味方もない。亮二くんを先頭に若い漁師たちが立ち上がって、押し寄せる波を防ぐ防波堤のようになり、ヒサさんを筆頭に奥さん連中が周りを宥めにかかっていた。
 その混乱に紛れて、僕はひな壇の会長のところへ進み出た。思いは、綾さんの無念を晴らしたいという、その一念だった。
 そして、会長の耳元でつぶやく。
――綾さんが産んだ子供は、生きています。その人は、あなたも知っている、岬の病院の理事長です。
 会長が驚きの目で僕を見た。
――捨てられた子が、今、立派になられて、病気の人々のために頑張っているんです。彼女が、シスターが、真実を知りたがっています。分かりますか、会長!
 そうか、あの人が……。真実を……。
 会長がそう呟く声が、大きな喧騒の中でも、確かに僕の耳に届いた。







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