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連載小説「思い出の後始末」#52人の重みというものは


第52話 人の重みというものは


 僕がこの小さな港町に来て、初めて人が亡くなった。
 亡くなったのは、和樹という港で働いている若い子だった。以前、嵐の後の港で漁協の年寄りたちに索の取り方が悪いと怒鳴られていた子だ。
 線の細そうな子で、こちらが聞いていても顔をしかめたくなるような汚い言葉、「くそ野郎」「このバカ」といったひどい言葉を投げつけられて、小動物のように震えていたのを覚えている。
 顔見知りの若い漁師から聞いた話によると、夜中に岸壁を歩いている時に何かに足を取られて海へ転落して溺れたということだった。年寄りからしてみれば、その不注意さに対し、ほら見たことかと言いたいところだろうが、実は体内からかなりの量のアルコールが検出されたらしい。
 彼は未成年である。警察は彼にアルコールを提供した店がないか、そちらを中心に調べているとのことだった。
 それは見当違いだと、若い漁師は怒っていた。彼によると、和樹は年寄り連中からのいじめを苦にして自殺したんだと、亮二くんをはじめ若い連中は皆そう思っているとのことだった。
 僕は特に和樹という子と接点があったわけではない。それでも彼の死が気にかかるのは、あの日老人たちに責められて完全に委縮してしまっている和樹の姿を見て、一方的に罵声を投げかける年寄りたちに対して憤りを覚えたものの、巻き込まれるのを避けたくてこそこそとその場を離れた、その自分の情けない姿を、彼の死が蘇らせるからだ。
 そう、自分は弱い人間だ。だからこそ、自分が傷つくことの無いように、人と深くかかわるのを避けてきた。
 以前は仕事に没頭し、仕事という壁を間に挟むことによって、人との関係に一線を画すことができた。
 それが、都会での生活を捨ててこの町にやってきてから、自分が鎧のように身に纏ってきたものを失ってしまい、人と素肌で接さざるを得なくなってしまった。そして、人間関係において人の肌合いというものを感じるようになり、その温もりを知ることになった。
 言うまでもないことだが、人は生きていて、その人なりの人生を歩んできている。ところが、「人は生きている」というその明白な事実を、僕はずっとないがしろにしてきた。命というものについて、その固有性を認識せず、抽象的な言葉としか捉えていなかった自分は、人の死に対してひどく鈍感だったに違いない。
 僕はビジネスの世界にいた時も、自然死以外の突発的な死を身近に経験したことがある。ハードワークが原因による、過労死だったり、今回ささやかれているような自殺だったり、不条理な死に方をした人たちのことだ。
 当時はその事実を聞かされて確かに驚きはしたが、それでも僕はその人たちが送ってきた人生にまで思いを馳せたことはなかった。忙しさに紛れてすぐに忘れることができた。
 それは、人としてあるべき姿ではないだろう。
 僕は今、ひとりの若者の死に接して、その子はいったいどんな人生を送ってきたのだろうか、どれほど切羽詰まった思いでその人生を終わらせようとしたのだろうかと、深く考えている。
 それを考えているうちに、身近な人のことが気にかかってきた。啓次郎さんの病状はどうだろうか。美羽音は復帰して何事もなくやれているだろうか。亮二君は老人たちに対して短気を起こすようなことはないだろうか。はなは、両親と上手くやれているのだろうか。困ってはいないだろうか。
 そして、あずみは、これから先どうやって生きていくのだろうか……。
 皆、自ら死を選ぶようなことは決してあってはならない。そういうことを、真剣に考えるようになった。生身の人間の「生」を肌合いで感じられるようになってきたのだ。
 今の生活の中で、僕はやっとまともな人間になろうとしている。
 和樹の死が、同じような死に方を選んだかも知れない綾さんの隠された人生を、もう一度表に出してあげたいという僕の気持ちを強く後押しした。
 得られる手がかりはどんな形であっても得たい。
 シスターが長い間心に隠してきた出生の秘密を僕に明かしてくれたのだ。 必要なら、僕の判断で他の人に明かしても構わないとまで言ってくれた。それほどまでに、これから老年期を迎えようとしているひとりの女性として、彼女は自分の母親がどんな人だったのか、自分の父親は誰なのかを知りたいと願っている。
 その気持ちに何とかして応えたいと思う。
 僕は先ず、啓次郎さんのところへ出向き、知った事実を報告して協力を求めることにした。
 茶房『はな』に行くと、啓次郎さんは僕が来ることを予期していたように、何も言わず珈琲豆を挽き始めた。
 一切迷いのない啓次郎さんの手順を見ながら、漂ってくる濃厚なエスプレッソの香りに身を任せていると、気持ちがすっと落ち着いていくのを感じた。
「啓次郎さん。綾さんのことで、新たなことが分かりました。驚かないでくださいよ」
 啓次郎さんはカウンターの向こうで椅子に腰かけ、この齢で驚くようなことなんて何もないよと言って、苦笑いをした。
 僕はエスプレッソを口に含み、香りと苦みを味わうと、言葉に間違いがないのを確かめながら、「綾さんには子供がいたんです」と切り出した。
 既に知っていたことなのか、子供がいたという事実にも啓次郎さんは特に表情を変えるようなことはなかったが、更に、その子供が実は岬の病院の理事長をしているシスターだったんですと続けると、啓次郎さんは立ち上がって身を乗り出してきた。
「何だって!」
「そうなんです。本人の口から聞きました。綾さんの子供が今もこの町にいるんですよ」
「まて、ちょっと待て。子供は生まれなかったんじゃないのか? 俺はそう聞いた。子供は流れたと」
「それは、誰から聞いたんですか?」
「スエさんからだよ。……綾さんが子供を産んだ?」
「そのスエさんが綾さんの産んだ子供を、修道院に置いたという話でした。その子が修道院で育てられて、シスターになったんです」
「そう、なのか。信じられんな。綾さんの子供が生きていたとは」
 啓次郎さんは、自分の齢から指折り計算をして、その人は今50代半ばぐらいの齢なんだなと感慨深げに話していた。
「啓次郎さん、教えてください。綾さんの相手、つまり子供の父親は誰だったんでしょう」
「それは、知らん」啓次郎さんは顔をしかめていた。
「綾さんは、今の『宝島』の屋根裏部屋に閉じ込められていたんですよね。狐憑きとか周りから言われて。シスターがスエさんから聞かさていたそうです。本当は精神の病気だったのではとシスターが言ってました」
「精神? 違う! それは違う!」啓次郎さんが精神の病気という言葉を強く否定した。
「あの人はな、本当に、無垢な人だったんだよ。何というか、透き通ったガラスのような……。とにかく、綾さんは特別な人だった。すべてをあるがままに受け入れて、そこから、そこから先のことが見えるんだよ」
「先が見えるって、預言者的な、ですか?」
「先読みとでもいうのかな。別に、本人は預言をしようなどとは思っていなかった。でも、周りが気味悪がった」
 悪い噂というのは広まるのが早い。彼女が災害や不幸をもたらすと誰かが言い出した。それが瞬く間に町の人々の間に広まった。
 もともと、庄司家は遠い島からこの土地にやってきたいわゆる「よそ者」だった。何かを誰かのせいにするには格好の標的だったろう。特に生活が天候に左右される漁師町だ。天災に近い海難事故で人が亡くなることもある。もともと迷信や妄信がはびこるような土地柄だったのだ。
 そして、両親はこの町にとどまるために、仕方なく我が子を部屋に閉じ込めた。恐らくそれは、心無い人々の攻撃から子供を守るためでもあったのだろう。
 啓次郎さんは、「昔の話だが、その時代を生きた同じ土地の人間として、恥ずかしいことだ」と締めくくった。
 いや、単に昔のこととも言い切れない。現に今だって町の人の標的になっている人間はいる。ごみ屋敷の建夫がそうだろう。村八分という悪習は、どんな時代だってどんな場所にだって、言葉通りの村にだけでなく、学校にも、職場にも、仲間内にも起こりえることなのだ。
「啓次郎さん。綾さんの娘さんに会って、綾さんがどんな人だったかを話していただくことはできますか?」
 僕の言葉を聞いて、啓次郎さんは一瞬天を仰いだ。
「綾さんの娘さんには……。会ってみたい。まさか自分が入院していた病院にその人がいたとは、そんな近くにいたとは……。もちろん、会ってみたい」
「会えますよ」
「会ってはみたいが、何というか、その人に会わせる顔がない」
「それは、どういうことですか?」
「お前に、それを言わんといかんのか」
 僕はすっかり冷たくなってしまったエスプレッソカップを両手で包んだ。
「話したくなければ、それでもいいです。ただ、僕が綾さんの娘さんに、間違った報告をすることになるかも知れません」
「俺を脅すのか」
「啓次郎さん。聞いてください。僕は真剣なんです。人の人生を追うなんてことを続けていいものかどうか、迷いながら進んでいるんです。今回のことで、色々な人の思いを、大げさに言えば僕が背負うようなことになってしまって……。正直に言います。怖いんですよ。自分だけで背負いきれるのか。途中でおろせるものなのか。考え始めると、不安しかないです」
 啓次郎さんはしばらく無言で、僕の言葉の底にあるものをじっくり見極めているようであった。
「お前は、色々なことを馬鹿がつくほど真面目に考えるやつなんだよな。反応も正直だ。みんなそれを感じ取っているから、お前に自分の秘密を話したがる。抱えてきた重荷をお前に預けて、自分は少しでも楽になりたいんだよ。みんな考えることは一緒だ」
「そんな……」
「他人の重荷を背負わされるお前の方はたまったもんじゃないがな。まあ、この町に来たのが運の尽きだと思って諦めろ。ついでだ、もうひとつ、背負っていけ」
 啓次郎さんは自分自身に向けるように皮肉な笑みを浮かべると、自分が心に抱えていた荷物を紐解いた。
 中から現れたのは、綾さんのその後の姿であった。






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