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連載小説「思い出の後始末」#56自由であるということ


第56話 自由であるということ


 ここにいると、どうも四季の移ろいの感覚が鈍ってきているのを感じる。
 夏はもちろん暑いが、秋から冬にかけても厚手のコートが必要になる程気温が下がることはめったにない。長袖のカッターシャツでも羽織っていれば日中は何とか過ごせる。
 つまり、そろそろコートやダウンジャケットをという衣替えのイベントがなくなると、季節の変わり目を意識することがなくなるということだ。まあ、日頃普段着と言われる服装で日々問題なく過ごせるので、スーツなどのよそ行きの服がなくなった分、服の保有数を考えれば、そもそも衣を入れ替えるほどのこともない。
 もし僕に自然を愛する者の注意深さでもあれば、雑木林の中の落葉樹の様子や季節で入れ替わる草花の様子で、その「時」を感じることができるのだろうけれど、生憎「お前は自然力に欠ける」と順慶に言われるような鈍い感性の持ち主だから、常緑樹の多いこのあたりでは、木々は常に緑で、海は常に青い、というのが僕の中の自然描写となっている。
 今日も空には雲ひとつなく、日差しは暖かく、『宝島』庭に出て大きく伸びをしていると、頭を悩ますような事も、一瞬にしろ忘れ去ることができる。
 ビールでも飲むか!
 思い立った時に思い立ったことができる自由。
 ああ、確かに僕はそんな自由が欲しかったのだなと、琥珀色の清水を漂い上がる細かな白い気泡を頭に描きながら、改めて実感している。
 僕はこれまで、自由という言葉に対しては行動の自由のことばかりを思い描いていたので、社会の中で生活をしなければならない限り、全く自由であることはあり得ず、人や事象の関係性の中で自分の行動が決められることがほとんどだろうと考えてきた。
 もし、社会から影響を受けることのない行動の自由を得ようとすれば、絶海の孤島にでも行くしかない。それとて、自然との関係性に縛られることを思えば、自由などという言葉は概念の中だけでしか成立しないものなのではないだろうか。
 長い間そう思っていた僕は、ほぼ自らの自由を諦めていた。ところが、社会のきつい束縛から逃げ出すようにしてやってきたこの場所で、次の一瞬一瞬を自ら決めなければ何も始まらないような生活を送っているうちに、ひとつ大切なことに気がついた。
 我々が口にする「自由である、自由でありたい」という言葉の意味合いは、実は物理的な自由のことを言うのではなくて、精神的に束縛されていない状態をさすのではないかということ。
 精神的に自由でありさえすれば、たとえ物理的な行動が社会生活の中で様々な制約を受けていたとしても、そこに自らの自由な意志を込めることはできる。
 そう考えると、以前の僕は、仕事に人生の全てを搦めとられ、精神的な自由まで放棄させられていたのだと気付かされる。
 精神を何かに束縛されていたら、たとえ体が自由でも、自由であるとは思えないだろう。
 身近な例で言えば、あずみのケースがそうだ。
 あずみは実の兄から精神的に強い束縛を受けてきた。しかし、彼女の日常は物理的な面では、好きな時に外に出れるし、必要があれば編集者との打ち合わせもできる。『チュシャーキャット』で僕たちと飲むこともできていた。一見、自由でいいねと言われるような生活を送っているように見えていた。
 けれども、あずみはどこにいても何をしていても、常に支配者たる兄の影が執拗に付き纏い、心を奪われ、その影に怯えていたのだ。
 第三者からすれば物理的に自由であるように映るあずみの生活も、精神的には全く自由ではなかった。少なくともあずみ自身は日常生活の中で自由を感じたことはなかったろう。
 精神的に強い束縛を受けるということは、僕たちの身の回りでも簡単に起こりえることだ。夫や恋人からのDV、上司からのパワハラ、学校でのいじめ……。文字に書くと、どこか上っ面な感じであっさりと流れてしまうこれらの事々も、当事者からすれば一生そこから逃げ出せないと感じてしまう生き地獄であり、精神を人質に取られているような状態なのだ。
 他人事だと思うなかれ。これは誰の身の上にも等しく降りかかってくる可能性はある。
 僕はここで、精神的な束縛のない状態を自由であると書いたが、もしそう感じられる人がいるとすれば、それはこの上もなくレアで幸運なことであることを噛み締めた方がいいと言いたくなる。
 これはいけない。自分らしくもなく、少し厭世的になり過ぎているかも知れない。
 簪(かんざし)を自らの喉に突き付けてまで呪縛から逃れようとしたあずみの行動が、それほどまでに強烈な印象を僕の中に残した。
 気持ちを切り替えて、庄司綾さんのことを考えよう。
 綾さんの場合は、物理的な自由を奪われていた。長い間屋根裏部屋に閉じ込められるという形で。では、精神的な束縛の方はどうだったのだろうか。
 昔のことで、不明なことが多いが、綾さんを一義的に部屋に閉じ込めたのは、綾さんの両親だった。しかし、そうせざるを得なかったのは、世間の冷たい目があったからで、気持ち的には世間の心無い中傷から娘を守ろうとしたということだった。
 綾さんの場合、監禁の犯人のような精神的な束縛の当事者になりえる相手が明確にいるわけではなさそうだ。町の人々の集合体としての世間がそれにあたると言えなくもいないが、綾さんが世間から束縛を受けていたと感じていたかどうかは分からない。
 今となっては、当時の綾さんを知っている人の話から想像するしかないが、仮に、本当に仮に綾さんが精神的な束縛を感じていなかったとしたら、物理的に閉じ込められていた屋根裏部屋でも、綾さんは自由を感じることができたということになるのだろうか。
 どうなのだろう?
 僕はそれを知りたい。それを知ることで、綾さんの死の真相に少しでも近付けるのではと感じている。
――綾さんは何故、何を思って死んでいったのか。
 



(毎回ご愛読ありがとうございます。次回は、年明けの二週目から連載を続けさせていただきます。) 

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