爆発侍 尾之壱・爆発刀 壱
序章 峰九里稲荷の怪異 壱
武蔵国、鳩峰藩の領内にある峰久里稲荷は、その名の通り峰久里山の山頂にあり、古くから土地の民草に奉られ、親しまれてきた古社である。
この稲荷神社は、麓から境内まで延びる合計千八百五段の石段が有名であるが、この九十九折りに続く長い石段を毎朝駆け上がる事を日々の稽古始めとしている男がいた。
男の名は、龍堂右門という。
元は下総国、上条寺藩の藩士として江戸屋敷に勤めていたのだが、訳あって四年前からこの地に移り住んでおり、今は麓にある峰久里村に居を構える素浪人である。
歳は二十四。六尺弱(約175cm)の鍛え抜かれた体躯を持ったこの男は、幼き頃から剣の道一本で生きてきたが、在野の身となった今も鍛錬を怠る事無く、この日も愛用の赤樫で作られた木剣を左手に、黙々と石段を踏み上っていた。
今は明け七ツ半(午前五時)頃だろうか。季節は初夏に差し掛かり日が長くなってきたとはいえ、まだ夜明け前の山中は、鼻をつままれても解らぬ程の闇に包まれている。
だが、規則正しい足音と共に聞こえ来る右門の呼吸に、一切の迷いは感じられない。
この地に来て以来、夜明け前の「稲荷参り」は天候に関わらず毎日行っている。この暗中行は、目に頼らぬ知覚の鍛錬として役立つと思い始めたもので、その甲斐あって、今では目を瞑っていても石段を踏み外すような事は万に一つも無かった。
段を踏む毎に頭の中で足されていく勘定は、先ほど九百を超えた。境内まで続く石段は残り半分程であるが、黙々と駆け上がるその速度は、上がり始めと全く変わらない。その進みは速くもなく遅くもなく、草履が石表を踏み擦る音が、暗闇の中で一定の拍子を刻んでいく。
だが突然、その音がぴたりと止まった。
背後に突如として気配を感じ、右門が足を止めたのである。
二間(約4m)ほど下、石段の上に、なにかがいた。
普通ならば、それで足を止める事は無い。真っ暗闇の山中とは言え、夜行性の獣は存在するし、今までもそれらが徘徊する気配を幾度となく当たり前に感じてきている。だが、右門がこの時足を止めざるを得ないほどの違和感を覚えたのは、一呼吸ほど前に自分がそこを通った時には、周囲にはなんの存在も感じなかったからだ。
そう。確かになにもいなかった。
それは右門の知覚が断言していた。稽古鍛錬の間は、常に気を張り集中している。ここまでなにかに接近されて気づかぬほど鈍ってはいない。
後ろの気配は、間違いなく「なにもない所から突如として出現した」のである。
静寂と暗闇の中、それはぴくりとも動く事なくそこに居続ける。
なんとも不可解な存在ではあるが、しかし右門がそれに対して即座に動かずにいるのは、なにも臆したからではない。背後の気配に、殺気の類いが感じられなかったからである。
少なくともそれがなんであろうと、今のところは敵意は無いようだった。
だがそれでも、その正体を確かめる必要はある。この山には熊などの危険な大型獣は存在しない筈だが、他の地から流れてきたという可能性もある。もしもそうだとしたら、後々人に害を及ぼさないとも限らないからである。
右門は不要に刺激せぬよう自然体で直立したまま、背後の気配を「分析」した。
これは……まずは解りきった事ではあるが、やはり人とは思えぬ。
人と対した際に感じる気配とは「質」が違うし、なによりも、こんな時間にこんな場所に足を踏み入れる者など、この辺りでは右門ぐらいしか存在しない。
だが、それなら獣なのかと言えば、それも今までの経験からして違うように思える。かつて右門は、稽古の為にここ以外の山中に籠もった事も幾度もあるし、そこで熊や鹿、山犬や狼などに何度も遭遇したものだが、背後の気配はそれらのどれとも異質であった。
そもそも、人にしろ獣にしろ、あって然るべき独特の「息づかい」が全く感じられない。
後ろにいるなにかは、どうやら呼吸をしていないのだ。
そんな馬鹿な。そんな生き物などいるはずがない。
ならば……。
ここに至って初めて、右門の脳裏に怨霊や妖怪変化の類いが浮かぶが、それはあっさりと否定された。
そんなもの、この世にいる筈が無いではないか。
向こうも動かぬ、
こちらも動かぬ。
暗闇の中、時間だけが過ぎてゆく。
このままでは、が明かない。
まずは声でもかけてみるか、と、右門は意を決した。
相手が人だろうと獣だろうと、なにかしらの反応があるはずだ。
人ならば答えるだろうし、獣ならば警戒して逃げるなり襲い来るなり、やはり動きを見せるだろう。
「お前は、なんだ?」
思ったままの言葉が、右門の口から出た。
簡単ではあるが、それだけに反応も単純になるだろうし、もとより右門は問答が得意ではない、という事もある。
次の瞬間、すっ、と、後ろの気配が動いた。
右門の問いに答えず――いや、その動きが答えという事か――そのまま気配はこちらに向かってきた。
来るか。ならば。
右門は、木剣を手にした左手を腰に、そのまま左足を軸にして、くるりと振り向いた。
右足は背後の石段に上げ、そのまま腰を落として抜刀術の構えに入る。
二間の距離など、剣の間合いとしては無きに等しい。
真の闇の中、気配は瞬く間に目の前に迫るが、右門の右手は、まだ木剣の柄にはかかっていない。
こちらに向かい来るその気配には、今なお殺意が感じられないからである。
違う。これではない。
もう一つ、いるな。
右門はこの時初めて、気配の後ろに更にもう一つ、別の気配が存在する事に気づいた。
いや、それは最初の気配が動いた直後に、新たに出現したのだ。
第二の気配は、最初の気配を追うように、やはり真っ直ぐ向かってくる。そして、こちらのほうからは、無遠慮な殺意が右門に容赦なく叩きつけられてきた。
ならば、こちらを迎えるのみ。
右門の注意は二つめに注がれ、ここで初めて、右門の右手が木剣の柄にかかった。
最初の気配が右門の左脇を通り過ぎる。
右門は、動かない。
次の気配が来る。
それは最初の気配を追わず、真っ直ぐに右門に向かって来た。
速い、と思うより先に、右門の腕が動く。
その右手に握られた木剣が爆ぜるような風切り音を上げ、逆袈裟の軌道を描いた。
右門の手にする木剣は、通常の打ち稽古に使うものではなく、素振りの鍛錬などに使われる「」と呼ばれるもので、文字通り船を操る櫂のように根元から切っ先に向けて太く幅広くなり、刃渡りも三尺(約90cm)あった。その一撃の重みは通常の木剣の比ではなく、当たったところは骨が折れるぐらいなら幸運。熟達者が振るった容赦なき一振りは、当たり所によっては肉が千切れ吹き飛ぶ事すら珍しくはない。
果たして、手応えはあった。
だが、なんと形容すればいいだろう。木剣から伝わってきたのは、肉や木を叩くような確固としたものではない。なにやら不確かな、重くなった空気を両断するような、ねっとりとまとわりつくようなこの手応えはなんだ?
心に浮かんだ疑問は今は捨て置き、右門はそのまま背後に抜けた気配を追って振り向くと、二の太刀として突きを浴びせんと木剣の切っ先を相手に向ける。
だが、そこにはもうなんの気配も存在しなかった。
「……逃したか」
既に一つめの気配も何処かへ消えた事を確認し、右門は構えを解いた。
不確かながら、放った一撃に手応えはあったが、相手を斃せたという実感はない。
あれは、一体なんだったのだろう。
人でも無い、獣でも無い。そもそも実体があったのかどうかすら怪しい、まったくもって理解出来ない相手であった。
まさか右門が対したのは、本当に妖怪死霊の類いだったとでも言うのだろうか?
「勘弁してくれ。怪談話にはいい季節かもしれんが……斬れぬものはやり様が無い」
そうつぶやき、気配が消えた先を見つめる右門の目に、九十九折れながら山頂へと延びる石段が、刺すような光とともに、だんだんと浮かび上がってくる。
夜が明けたのだ。
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