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随想好日 第十五話『河井寛次郎の世界』

 昨日に続き河井寛次郎の話しになることをお許し願う次第です。
 筆者、どうあっても命の炎が消えるまでには、この河井寛次郎を作品として仕上げなければならないとの使命感に駆られておりまして。何処かのタイミングで書くことにはなるだろうと思っております。
 河井関連書籍だけで既に4冊ほど読み込みました。本当はあまりこういう資料は読みたくは無いのですが、歴史時代が絡むことゆえ踏襲すべき処はしっかり踏襲しなければなりません。
 いつになったら書けるか分かりませんが、そういう類、命ある間に書き上げておきたいものが三本に増えておりますことから、あまりのんびりも出来なくなってまいりました。
 
 河井に関しては、自分のブログでも過去に何本かの原稿をアップしているのですが、随分粗さも目立つことから少し手を入れここに持ってきた次第です。

 さて、作品タイトルは巻末にてご紹介申し上げるとして___________。
まずは、サムネイルをご覧いただきましょう。
 如何でしょうか。皆様にはどのように見えるでしょう。
花瓶・花卉の正面からの画像です。
 わたしには、片足を上げ、両手を広げ、躍動する人間の姿に見えるのです。ひょっとすると、村の秋祭りなどでの奉納舞か神楽舞かもしれません。
 または、日照り続きのところに堕ちて来た雨に歓喜を顕しているようにも見えてきそうです。

次の写真では、この花卉の裏面をご覧いただきます。


河井寛次郎作

さて、裏側ですが如何でしょうか。
 わたしには「炎」という文字を三人の人間が形作っている様に見えて来るのです。
 では、最後に両袖、両脇の画像を紹介します。

河井寛次郎作

さて、これが左右の染付です。
私には「命」と見えて来るのです。

 昨日の原稿でも紹介させて頂きましたが、河井寛次郎の作品は用の美、民藝といわれ、人々の日常に寄り添った作品が多いことで知られています。
人々の暮らし、生活、生きることを正面と捉えた時には、死生観でありそれらを掌るものへの畏れ、畏敬が滲むことは当然でしょう。
 また、河井の座右の銘でもありますところの自他合一。
 さて、これらを頭に入れてこの染付を解釈してみるのも面白そうです。


人が生き、"魂の躍動"を楽しみ、生けることへの感謝は"命"によって支えられている。その命は"自他合一による炎"によって益々盛んに燃え盛るだろう

 河井の哲学がこのようなところにも顔を覗かせたと思える、じつに映えた作風です。わたしの感覚からすると比較的に晩年とは云えない頃の作品のように感じられます。ストレートすぎるといえば誤解が生じるかもしれないのですが、これまでわたしが眺めてきた作品の中では真っすぐさが際立っている様に思えるのです。

さて皆様にはどのように映ったことでしょう。
因みに作品タイトルは
『草花図扁壺』となっておりました。

わたしだったら、"命の炎への賛歌"ぐらいつけてると思う。
このあたりに河井の人格者たるところも滲むのでありましょうなぁ。

皆様にとりまして、本日も創造性豊かな一日となりますようお祈り申し上げます。

世一


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