自分の人生を面白く話せるようになりたい話
私は特に最近、面白い話をすることができる人に強く憧れている
私の中で面白い話をすることができる人というのは2種類あると思っている
1つは単純に口調や身振り手振りなどで話を面白くできる人
そしてもう一つは面白いエピソードトークを持っている人
その2種類
今回は特にその後者である、面白いエピソードトークを持っている人がとってもうらやましくて仕方がないという話を起点に話してみたい
1人で話せる人と相手がいて話せる人
例えば私は
「何か面白い話をしてよ」
他の人からそうお願いされたとしてもぱっと思いつくものがない
そのたびに自分の人生ってそんな面白くなかったかなと落胆に近い感情を抱いてしまう
一方で先日話した人はパッとその日のエピソードが出ていた
「時計のベルトを修理するために使った接着剤が肌にも付着し皮がめくれた」と
なんじゃそりゃ
面白いなぁ
ずるいなぁ
いろんな感情が私の中で混ざった
振り返っても私の会話姿勢は他の人ありきで成り立っていると感じる
話をしてくれる相手の話を踏まえて、話を進めるスタイルが多い
さっきの時計のベルトの話だと
・どうしてそんなことになったのとか
・肌は結局大丈夫だったのかとか
相手の話を拾う会話をすることが多く自分が主体になることは少ない
少し上述したように、そうした他人に話せるエピソードの少なさから、他人と比べて自分の人生って面白くないなあと思うことがある。
自分の人生面白いと思えないのは必然なのか
これまで話した自分と面白いエピソードを持っている他の人の違いとして、そもそも面白いことに遭遇できるかどうかの違いがあるのではないかと考えてきた
言い換えると豪運の持ち主とか芸人気質かどうかといった感じ
運や天性のもので面白いエピソードの持ち駒が増えるのではないかと思っていた
だけど次の持論を唱えている人がいた
「面白くない人生を過ごしている人はいない」と
この発言を仮に真とするのであれば、自分はあくまで自分の人生が面白いって言うことに気づいていないって言うだけではないかと思った。
そしてつまり、私が憧れるような面白いエピソードトークを持っている人は、自分の人生がいかに面白いのかということに気づいている人であると言えるのではないか。
自分の人生が面白いと思えないことを、与えられたもののせいにするのではなく、自分にも問題があるのではないかと考えるようになった
面白くなるのってここからでは?
私が面白い話をすることができる人に憧れる理由ってなんだろう
そう考えると、自分はしんどい時とか他の人の話を聞くことや他の人と話すことで何度も救われてきたことがあることと関係するのかなと思う
私のnoteの中では繰り返し述べられてきたが、自分はそういった経験を背景に自分も他の人に自分がしてきてもらったことを返したいという思いがある
そう考えた際に、同じように面白く話すことができない自分に対して思うところがあったり、一方で面白く話せる人たちのことを憧れるのではないだろうか
現状、私が前向きに過ごすために、途中で言及したたった一人の人の発言を元にした仮説を私は信じることにした
自分の人生のどこが面白いと思ってもらえるのか
それこそ人生の話をこれからすることが年齢的にも増えていると感じる
人生の価値観やビジョンなど大学を卒業した人から自然と多く聞くようになった
そのような会話を人と積み重ねる中で、自分の人生の面白いところを見つけられるのではないかと思っている
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