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将棋部の2人

目を閉じて、駒箱に顔を近づけるとほっとする。駒包みに使っている布切れをどけると、誰もいない朝の山道を歩くときの匂いがする。顔に向かって陽が差し込んでくる。目を開けると、今日で最後の、いつもの景色が広がっていた。

運動が好きではなくて、楽譜も読めなかった。そして小さなころから家には将棋盤があった。

部活の希望を書く紙で、目に留まった将棋部に丸をつけた日の帰り道、自分がバスケ部と弁論部を掛け持ちするような、活発でおしゃべりの上手な女の子だったらと想像を膨らませながら歩いた。

守衛には一度も勝ったことがない。3年間、駒の動きのほかには何も覚えられなかった。本を読んでも実際に駒を並べてみてもだめだった。

そんな私に比べて守衛の指す手はいつも正確で、早くて、一定のリズムがあった。そのうえ、対局のあとも私の手を完璧に覚えていて、いつでも盤上に再現してくれる。その手つきは淡々としていて嫌味はなく、感想戦にいつまでも付き合ってくれた。

調子が悪くてまったく対局できない日もあったけれど、そんなとき私は、守衛がいるところで試験勉強をしたり映画を観たりした。そうして、できるだけ長い時間を部室で過ごした。

この場所で過ごせるのも今日までだった。誰も来ないとわかっているのに鍵をかけ、いつものようにソファに横になって、天井を見ていた。不規則に並ぶ点と線が人間の顔にも松の木にも見える。購買で買ったチョコチップクッキーを食べて、

「あれ、こんなに塩っぱい味だったか?」

と思う。最後に、一回だけ守衛に勝ちたくなった。

時間制限なしの対局が始まった。反則技の待ったをかけようと、途中で『ドラえもんと学ぶはじめての将棋』を見ようと、一手に20分かけようと守衛は文句ひとつ言わない。私が駒から手を離した瞬間に指し返してくる。

パチパチと指すたびに自然と、

「今まで一緒にいてくれてありがとう! なんてことのない話を聴いてくれてありがとう!」

と言葉が口からこぼれてきた。即座に

「いいよ、どういたしまして」

が返ってくる。

ふと、いつものくせで道を空けておいた角行を相手の陣地に差し込んでみようという気になった。あれ。いきなり裏返していいんだったっけ。守衛からは何も反応がない。大丈夫だ。

桂馬を取って、銀将を取って、守衛の手番がほんの少しだけ遅れた気がした。

確信のもてない手だった。私は斜めに引いた。

「あなたの勝ちです」

もうこの駒包みの力強い匂いと、目に染み入るような濃い紫色に触れることはない。Macの画面を撫でて、私は部室をあとにした。

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