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浮世草・追補「人と獣の境界」

これはゲーム『Ghost of Tsushima』の二次創作小説です。序盤~中盤のネタバレが含まれていますのでご注意ください。(約2700文字)


 豊玉、卯麦から北上した街道外れ。始終どんよりとした雲が垂れ込む日のことであった。
 菅笠を被った粗末な身なりの男が物憂げな佇まいで立ち尽くしている。
 目の前には死体が横たわっていた。土に染み込む血はまだ温かい。たった今男が殺したものだ。骸は男と女の二人分あり、夫婦か兄妹かは分からぬ。どうでも良い事だった。
 男にとって、丸腰の人間を殺すのは獣を狩るより容易かった。
 猪のように気が荒いわけでもなく、鹿のようにすばしこくもなく、熊のように獰猛でもない。逃げる背に向け刀を走らせれば、それだけで人は死ぬ。
 男は飢えていた。
 これまで何人もの人間を斬ってきたが、死人の懐をいくらまさぐっても出てくるのは僅かな稗と粟ばかりで、男の飢餓感が解消されることはなかった。乗っていた馬もとうの昔に殺して干し肉にし、それも数日前に食べきった。
 しかし、男は人肉に手を付けるほど獣に堕してはいなかった。腰に吊した刀が、男を人間の域に押し止めている。
 男は刀に付いた血を裾で拭い鞘に納めると、死体を蹴って仰向けに転がした。胸に抱いていた葛籠が転び出る。死の間際まで大事に抱えていたものだ。
 葛籠に手をかけようとしたその時、地面が微かに震動していることに気づいた。顔を上げ街道の彼方を見やると、一頭の馬が駆けてくるのが見える。全速であった。
 この島であれほど早馬を飛ばせる人間はそういない。そして土煙を上げこちらに迫り来る姿かたちは明らかに蒙古の巡回ではない。
 男の体中に稲妻が走り、自分でも驚くほど早く太刀を抜き構えた。これが生死を分け隔てた。
 真っ黒い影が馬の鞍を蹴り、垂直に飛び上がったと思うと、落下に合わせ男の脳天に刀を振り下ろした。信じがたいほど強烈な一撃であった。
 男は水平の刀で受け、衝撃を逃がすため無様に後ろへ転がり込んだ。剣先を振り威嚇しながら再度剣を構える。そして見た。
 光を全て吸い取ったかのような漆黒の甲冑に、純白の鞘が影から浮き出ている。面頬に隠されその顔は窺い知れぬ。銀白を宿す抜き身の刀のみが、恐るべき殺気と威圧を放っていた。
 冥人。
 蒙古を討つべく冥府より来た伝説の武者。
 いや違う。男はこの者が何者かを知っている。
 境井仁。対馬五大名家の一つ、境井家の当主であり、蒙古襲来の折に小茂田浜での開戦で死に損ない、単身コトゥン・ハーンに挑むも無惨に敗れ、跡取りにと目をかけられていた志村家から勘当されながら、なお対馬から蒙古を一掃すべく野盗じみた行いを繰り返し、蒙古の野営を襲う狂人だ。
 思えば全てが狂ったのはこの男のせいだ。
 頭の竜三が他ならぬ境井仁に討ち取られてからというものの、菅笠衆は蒙古から見放され、外敵に与したとして民からも受け容れられず、仲間たちも千々に散っていった。故に、男は生き延びるため野盗にまで身をやつさなければならなかった。
 境井仁と自分、どちらも全てを失ったことは同じであるのに、かたや冥人などと呼ばれ民から持て囃される始末。男はそれが許せなかった。
「何故殺した」
 冥人が低く問うた。
「無論、生きるため」
「お前たちを苦しめているのは蒙古だ。刀を向ける先を間違えておる」
「ふん、知るかそんなこと。全てはお前のせいだ冥人。貴様が我ら菅笠衆を、竜三の旦那を斬ったせいで俺たちは蒙古に追われることとなった。この島で我らの味方をするものは最早おらぬ。故に、生きるために殺すのだ。俺が野盗崩れに成り下がったのも全て貴様のせいだ、境井仁。俺はお前を呪うぞ」
 冥人は刀を鞘に納め、柄に手をかけた。
「存外よく喋る口だ。菅笠衆の中でも一番口が達者な男であるな」
「ぬかせっ」
 男は激高と共に冥人に斬りかかった。その刃が冥人に届く直前、恐るべき居合が男を両断した――男は頭の中で描いた一手を打ち消した。
 これでは勝てぬ。別の一手を考えよ。
 男の錆びつきかけていた剣は、この生死の瀬戸際において、急速に冴えを取り戻しつつあった。それ故に男には分かる。男と冥人の剣術には歴然の差があることを。これほどの修羅とは。
 あの甲冑は、どれほどの血を浴びて来たのか。
 あの刀は、どれほどの命を刈って来たのか。
 あの男は、どれほどの地獄をくぐり抜けて来たのか。
 冥人は微動だにしない。しかしその出で立ちから発散される気迫は紛うことなき本物であり、冥人の身丈を遥かに大きく見せる錯覚を起こす程であった。
 男の頭の中では警鐘が鳴り続けている。得物を捨てこの場から逃げ出せと、生きるために恥をさらせと。獣の生存本能が告げていた。
 だがその一方で、僅かばかり残っていた武士としての魂が、この場からの逃走を許さず、地面に足を縫い付けていた。皮肉にも先の一撃から男を救ったのも、この剣客としての意地であったのだ。
 色が喪せ鈍化する時の流れの合間、男の中では獣の自分と剣客の自分がお互いに喰らい合い、せめぎ合っていた。なんと無意味なことか。目前は生死の境であるというのに。
 極限の状況に耐えきれず、男は意識を未来に飛ばした。
 ここで境井仁を殺し、己が冥人に成り代わればやり直せる。この野盗の如き暮らしに別れを告げ、蒙古退治の武勲も手にするのだ。将軍の目に留まれば武家への取り立てすら叶うやもしれぬ。そうだ。まだ成す術があるではないか。目の前の男を殺せば。
「お命、頂戴するっ」
 男は刀を振るった。軌跡は空を切った。
 胸から鮮血がほとばしり、天地が流転する。
 男は身体から命が流れ出していることを悟った。それでも地面をはいつくばり、死に抗った。口の脇から泡が飛び、青筋が浮き出るほど固く拳を握る。
 冥人はまだこちらに刃を向けている。剣先を伝って血が滴り落ちる。
 すぐ傍に葛籠が転がっているのが見えた。最後の力を振り絞り、男は葛籠を開けた。
 男は中を確認すると、獣のような慟哭をあげた。
「けだものめ。かような様になろうと得たものが惜しいか」
「けだものだと。その言葉、そっくりそのまま返すぞ境井仁。冥人などと祭り上げられているが、お前は俺と変わらぬただの人斬りだ。闇に紛れて喉笛を切り裂き、毒を盛り、何十何百も人を殺した。俺よりも卑劣な人斬りだ。呪うぞ冥人よ。例えこの身が滅びようと怨霊となってお前に纏わりつき、死ぬときは地獄に引きずり込んでやる。呪ってやる 呪ってやる 呪ってやる」
 冥人は刀を閃かせた。呪詛は止み、それで終わりであった。
 僅かばかりの稗と粟が入った葛籠を掻き抱いて、男はこと切れた。
 次第に暗雲が広がり、低い雷が唸ったのを合図にしとしとと雨が降り始めた。冥人はいずこかへ去り、その場には雨に晒される三人の屍が残された。侍が姿を消した対馬では、至極ありふれた景色であった。


(終)

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