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ゴミはどう生きればいいのか

人には多かれ少なかれ有形無形の資産がある。
前者の代表例はお金、後者は優しさや思いやりなどだろうか。

これまでの半生を振り返ると、おおむね搾取されながら生きてきたように思う。自分の意識が幼稚すぎて被害者意識ばかりが募っている気がしなくもないが、僕の中でそうなんだからそうなんだろう。


お金

小さい頃から、家族にお金を取られてきた。
小遣いを貯めて数千円にすると、家の問題児だった兄に必ずと言っていいほど盗まれた。

大人になると、兄はパチンカス債務者にメガシンカし、5桁のお金を貸してくれと日夜頼みこんでくる。当然返ってくるあてはないが、貸さないと家の物を破壊したり僕の私物を売りさばいたりしてしまうので、仕方なく少ない給料から兄にお金を貸した。案の定、帰ってはこなかった。

仲良くなった友人に金を貸したこともあった。
最初は色を付けて仰々しく返してくれたから、信用して次のピンチの時にもお金を貸した。しかし、返済にまわせばいいお金をパチンコで溶かして、ニチャニチャと負け報告をされた。催促をすると嫌味がかえってきた。

お金というのは生活の原資であり、なくなると日常の選択肢やクオリティが目に見えて下がる。食事は肉からもやしになり、ちょっといいなと思ったものも買えない。気分転換の外食も気が引けるようになる。

そしてお金の出どころはだいたいの場合、時間をかけて働いた報酬だ。
時間とは突き詰めて言えば人生そのもので、働いている人たちの大半は命を削り取ってお金に変えている。
それを他人から借りたり奪っておきながら仇で返すというのは、その人の人生そのものの否定であるように思う。


優しさ、思いやり

先述の通り、兄は問題児どころの騒ぎではなかった。
うちは母子家庭だったので、母親は仕事から帰ると兄の暴力にさらされることになった。
金がもらえないと家具を壊すというのがメインだったが、時には母に対する直接的暴力もあった。兄とは年が離れていたのと、臆病者だったので、僕は見ているしかなかった。
寝込みを襲って殺そうと思ったことはあったが怖気づいてやらなかった。今思えばやっておけばよかったと思う。その方がまだ人生の予後はよかったと思うからだ。

さて、バイオレンスな話はここまでだが、仕事帰りにそんな惨状を見せられた母親は当然悲しむ。
そして、その母親を慰めるのが僕の役割だった。
他にやる人がいないし、母親が悲しんでいてどうも思わない子供もそうそういないだろう。僕はあの手この手で母親を元気づけようとした。家庭が壊れてしまうという強迫観念による部分も大きいが、思いやりや優しさもたしかにあった気がする。

大人になってからはパチンカス債務者になった兄のせいで一家離散した。兄が実家を占拠して、僕はアパート、母親は職場の社宅暮らしになった。これでいちおうの平穏がやってきて僕は少し安心した。

しかし、家に執着するのが親世代の特徴なのか、母親はことあるごとに実家に帰りたがった。自分の所有している家に子供が居座っていて、自分は社宅生活というのが惨めだったのかもしれない。

僕は母親が実家に帰ることには強く反対した。
母親と兄は犬猿の仲で、言葉を交わすたびにトラブルになるのをずっと見てきていたからだ。状況が悪化するとわかっていて賛成するアホはいない。

母親のその後について、僕は2つの案を提示した。
①兄をどっかの賃貸に追い出してから実家に戻る
②もう実家を捨てる

①の場合だが、兄は債務者なので首が回らなくなり、結局は実家に襲来する可能性が高い。あまり現実的ではなかった。
②は母親が実家を諦めさえすれば解決する。

法テラスなどにも相談したが、現実的な手段は②しかなかった。
自分が広めの賃貸を借りて母親と同居するとか、長期的に貯蓄して家を買ってそこに住むとかも提案したが無駄だった。
母親はとうとう兄のいる実家に戻ってしまった。僕が頭をひねったりサポートしたことは無駄になったようだ。

驚くべきことに、実家に帰った母親は兄と波風立てずにやれていた。
どうも、兄からすると僕と母が結託しているように見えていて、それがさらに暴力に火をつけていたそうだ。

まとめると、
①兄がキッチングガイで母親を苦しめる
②仕方ないので母親を思いやる
③それを見て兄ヒートアップ

という構図だ。
何が悪いって、キッチングガイの兄がもっとも悪いわけだが、僕は②と③の工程で知らず知らずのうちにしっかりと油を注いでいたわけである。

子供時代から、僕は母親を悲しませないように、母親が納得するように、という行動原理で動いてきた。やりたくもない仕事に就いたのもそのためで、生まれた家の人柱になることを半ば受け入れていた。
しかし、実際に起きていたことを見ると、どうやら僕の優しさや思いやり、人柱志願は無駄だったようである。むしろ問題をややこしくしていたようだ。

これを搾取というべきかは迷ったが、優しさや思いやりが無駄になり、最悪の事実を突きつけられたという点では搾取と言えるかもしれない。ひどい言い方になるが、僕が子供の頃の母親に対する役割は、明らかに小さな彼くん・夫くんだったし。

搾取されたという自意識だけが残った

こうして、お金や優しさ、思いやりを搾取されたという自意識が強い孤独な中年が誕生した。

これまで捧げてきたものに対して、こちらが得をするような見返りが欲しいわけではなかった。お金を返してもらうことなんて諦めていたし。
しかし、仇で返されたり裏目に出たりするのはあんまりじゃないか。こういう経験が積み重なって、僕はすっかり歪な人格を形成してしまったように思う。

そのせいか、現状、他人に対する期待値はあまり高くない。
援助や手助けをするのはもはや性格の一部になってしまったので、今でも他人に対して施すような行動をする事がある。
これまでの経験もあって、さすがに結果的にこちらが得をするような見返りを求めているわけじゃないが。

しかし、何の見返りもいらないというわけでもないのが困りものだ。
今までは搾取されてきたわけだから贅沢は言わない。
せめて感謝だけでももらえないだろうか。ないがしろにしたり雑に扱ったりするのではなく。

それくらいならどうにかなるんじゃないかと思っていたが、どうもそれすら難しいようだ。

ある程度加齢した男性がそうなのか、僕の中のメサイアコンプレックスがそうさせているのかはわからないが、自分には何かを与えることしかできないと思っている。手持ちは少ないが、それでも誰かに何かを与えられる人になりたいとも思っている。

しかし、それすらもないがしろにされた時、僕は自分がどうしようもないゴミに思えて仕方なくなる。僕というゴミにお金やら物やらの微妙な価値がこびりついてて、それを回収したらあっけなく捨てられるのだ。

最近はもう、この自意識に対抗するような気概もなくなってきた。
自分がまごうことなきゴミであると割り切って、後は社会や人々への憎しみを糧に生きていくのもいいのかもしれない。
犯罪はしないけれど、誰にも優しくない人になっていきたいと少し思った。

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