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違う名前で私を呼んで。(エッセイ)

 母がなろう小説を読んでいるらしい。「転スラ」をおすすめされた。実は知ってた、転スラ。だって私も小説投稿サイトに投稿したりしているし。うちのこどもは転スラに出てくる主人公スライム、リムルに似た色付けを施したスライムをボトルに詰めて喜んでいる、インマイハウス。楽しい我が家。洗濯のりとホウ砂でスライムを作ろう!

私:「ほかにもおすすめある?」

母:「BL世界に転生する話が面白いよ」

 ほんとですか母上。
 
私:「蜘蛛のやつわかる? タイトル知らないんだけど、
 乙一先生が褒めてたから気になってた。わたしも読んでみたい」
母:「蜘蛛のやつ? 面白いよ、なんかね……」
 (読んでた……)

母:「なろう系小説、個人が書いてるから、完結しなかったりもあるけど、それもご愛敬だよね。まぁこっちはタダで読んでるから文句はないよ。楽しい。」
 (すいません、エタらせてすいません)
 (エタるというのは永遠に完結しないことを表すネットスラングだそう)
 (ネットの海にはエタった作品が山のように漂っているよ)
 (かと思うと急に再開して完結されるすごい作者もいるよ)

 これはいつネットで親に遭遇するかわからないですね。
 のっぴきならない。
 
 実際の家族とネット人格の関わりってみなさんどうしてらっしゃるんでしょうか。創作界隈はその性質からか、匿名性が高い気がします。それに比べるとnoteは実名寄りのメディアなのかなと思う時があります。

 私のこのアカウント名は家族にはばれているんですが、実家にはまだです。
 でもこの記事を読むと母なら「あ、これは娘だな」とピンと来てしまうと思うんですね。それはなんか恥ずかしくて嫌ですね。遡って投稿欄を見てみると、あらこの子こんなぽえみーな記事を書いてるわ。とか思われるかもしれない……。

 例えば記事の内容の説得力ですが、書いた人の経験や私生活が反映された内容の方が増すと思うんです。どういう立場の人が、どういう経験をして得た結論なのか。創作をしていても、意外と筆者の内情って反映されるんですよね。

 最初は読んだ人に内情を救い取られるのが苦手で、どうにかして自分を薄めようとしていたんですけれども。そうやって書いたものはやっぱり面白くなかったです。薄めたバヤリースみたいで、良さがほぼなかった。そこまでして薄めても、やっぱり自分っぽさがにじみ出てきて、余計になんか嫌になったのを覚えています。そんならいっそ丸出しの方がいいよね、たぶん。

 
 かといって実名で創作バーン! It's me!
 と胸張って言えるほど腹くくってないので、筆名(けっこうふざけてるね、私の名前)を選択しているのですが。

 海外作家さんは本名が多いような気もします。日本の創作界隈ではどのジャンルも慣習的に筆名を名乗っている作家さんが多数なのかな? 江戸時代は屋号や襲名制度があったりして、匿名が制度化された名残が現在まで続いているのかもしれないですね。

 匿名と実名。うーん。最近ずっとそのことを考えています。
 長く使った筆名は本名よりもその人を表すものになるのだろうか、とか。
 小さいころの呼び名がその人を形作ることはあるだろうか、とか。
 名前や呼び方と、個人の関係を考える時間が増えました。 

 いつか広大なネットの文章の中で、母が私にたどり着く日はやってくるんでしょうか。そのときお互いにどんな顔をしていたらいいのか。つい考え込んでしまいます。

サポートいただけると嬉しいです。記事に反映させます。具体的にはもっと本を読んで感想を書いたり骨身にしたりします。