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死んでしまうほど冷たい夏

 好きだった女が死んだから、弔うために地元に帰った。昔暮らしていたあたりはときが止まってしまったかのように、何年も前に、私が町を飛び出したままの景色を保存していた。民家の軒先で、つる性のバラが潮風に揺られて踊っていた。
「舞輝」
 杏璃が堕ろした子供が、今でも時々目の前に見える。舞輝という名前は杏璃がつけた。父親のことはよく知らない。彼女は誰とでも寝ていたから。よく人の男を寝取ってトラブルになった。寝取ってと言うのは正確ではない。彼女は男を拒まなかっただけだ。私以外のほとんどの人間と関係を持っていたのではないだろうか。特段美人というわけでもない、性格の悪い女だった。
 性格が悪いと言ったら舞輝に叱られてしまうかもしれない。可愛げのない女だったとしておこう。人を小ばかにしたような笑いは周りの人間の神経を逆なでたし、ときどき、ぞっとするような冷たい目をする女だった。そのくせ誰にでも親切で、相手の警戒心を解くのが得意だった。杏璃は心の隙間を見つけると、そこを巧妙に刺激する。相手の反応を見ながら、じわじわと、ほとんど狩りのようだった。
 淡路からバスに揺られて、瀬戸大橋を通って徳島にわたる途中、社内に舞輝の姿を認めた。舞輝は走行中のバスのなかをこちらめがけて走ってきて、開いていた隣の席にちょこんと座った。
「久しぶり」
 声をかける。舞輝は答える代わりに、元気よく足をバタバタした。大きくなっている。五歳くらいだろうか。初めて見たときは、プランクトンのような形で空中に浮いていたものだった。舞輝は私の目の前に現れるたびに成長していった。魚から胎児に、胎児から乳児に、乳児から赤ん坊に。生前、杏璃に一度だけ、舞輝の姿が見えると話したことがある。病院にいけ。と言われただけだった。

 地元の人付き合いが苦手だった。杏璃の悪行も、大半の人の口に上っていた。「男を」「食い散らかす」「人間ではない」杏璃が原因で崩壊した家庭は、片手では収まらないということだった。本当かどうかは誰にもわからない。
「私が壊したわけじゃない」
 壊れていたものが誰の目にも明らかになったというだけのことだ。生前杏璃はそう言っていた。杏璃には友達がいなかった。杏璃の友達は私だけだった。私たちは夏が来るたびに、海や山や畑で、小学生みたいにはしゃいでまわった。杏璃は容易に犯罪行為に手を染めた。私はそれを止めもせず、咎めもせず、ただ黙って見ていた。好きだった。杏璃のことが。離れたくなかった。

 妊娠が分かったのは、高校に入って一度目の夏だった。杏璃はこどもを産むと譲らず、母親とけんかになった。杏璃の家はどこにでもあるありふれた家庭だった。気の強いお母さんと、まじめなサラリーマンの夫婦。私には、杏璃がなぜ、誰とでも寝て、口さがない連中に好き放題言わせておくのか、わからなかった。コンビニのバイトをしていた時、店長と不倫して家庭を壊し、さらにアルバイトとも好き放題して昼ドラも顔負けの人間ドラマを繰り広げていたらしい。
「ばっかじゃねーの」
 私は杏璃に言った。
「お前がJKでものめずらしくて誰にでもいい顔するクソビッチだから舐められてんだよ」
 だってさ、と杏璃は言った。
「ものめずらしくなくなったら、どうして生きて行っていいかわかんないからさ」
 長い喧嘩の末、結局杏璃は赤ちゃんを堕胎することになった。中絶費用は店長が出したらしい。よかったね、と私は言って、まぁね、と杏璃は返事した。あくる年、杏璃は高校を辞めて地元の男のもとに嫁いだ。七つ年上の、気の弱い、バイク屋の店員だった。学校もやめて、専業主婦になって、暇を持て余した杏璃は、日中しょっちゅうメールをくれた。私はそのせいで成績が下がって、親にぶちのめされた。そのうち杏璃は働きに出だした。スーパーのレジ打ちをまかされているのだという。そのうち、夫に浮気を疑われて暴力を振るわれるようになったと、風のうわさで聞いた。そのころ私は大学に受かって、引っ越し手続きに奔走していた。
「この町出ようや、一緒に」
 と杏璃にメールした。
 杏璃は、考えとくーと返事を寄越して、それっきり。出発の日も連絡したけど、見送りに来てはくれなかった。その日のことを思い出すと今でも胸が痛む。せめて舞輝の姿だけでも見たかったけど、それすらかなわなかった。  

 私は町を出て、大学に通って、卒業して、大阪で働き出して、徳島には帰る暇がなかった。嘘だ。ほんとうは帰ってくるのが怖かったのだ。杏璃に見捨てられたことが、はっきり身に染みてわかってしまうことが怖かった。
「そっちはどう?」
 杏璃のアドレスにメールする。送信先不明で返ってくる。見慣れたエラーコードが冥界につながっていればいいのに。隣の席では舞輝が無邪気に笑っている。本当は君、ちゃんと大人になっていれば、今頃中学生だったのにね。私は舞輝の頭を撫でる。無邪気な瞳がこっちを見上げる。きらきらしている。杏璃の目に少し似ている。

 バスを降りると舞輝はいなくなった。スーパーで仏花を買い、タクシーで杏璃の墓のある町へ急ぐ。タクシー運転手がなにか話しかけてくる。幼馴染の父親だと気づくのに、少しかかった。世間話をする。杏璃の墓参りに来たのだというと、押し黙った。杏璃はいろいろな人に恨みを買っているのだった。忘れていた。私は大阪で買ったお菓子を運賃と一緒に沿えて渡した。
「出るんやと」
「え?」
 降りがけに声をかけられた。
「自殺ってことになっとるけど、そうやないって噂じゃ」
 あんま近寄りすぎるなよ。連れていかれるぞ。そう言い残してタクシーは去っていく。出るって、杏璃のことかな。出てくれたらうれしいのに。もう十年以上会ってないんだから。

 墓に行くと火のついた線香が煙を上げていた。誰か来て間もないのだろう。持ってきた雑巾で墓石をぬぐう。葬式にすら出られなかったことを心の中で詫びる。杏璃の夫が喪主を務める式になんて、顔を出したくなかった。つらくて、辛くて、耐えられないと思った。
 杏璃が夫に殺されたという噂があるのは知っていた。だけど、死因はなんだってよかった。物心ついたころから自殺願望のある女だった。川に飛び込もうとするのを泣きながら止めたこともあった。生きている人間の全力の抵抗を受けるのは骨が折れる。全身が痛くて息切れして、限界だった。愛と勘違いしそうになる。私は杏璃を愛しているから、自殺を思いとどまらせたいのだと。

 だけど杏璃は、そういう胡乱さをなにより憎んでいた。杏璃は明晰な思考の持ち主にしか、自分の精神を好きにさせなかった。だから憎まれたし、疎まれたし、嫌われて、望まれていた。私は杏璃に愛されないならいっそ憎まれたかった。嫌われたかった。好きだったから。
 杏璃のことを考えると、心臓の欠けた部分が痛くなる。欠けたところは杏璃が持って行ってしまった。かえしてくれなくても、ずっと持っていてくれたらそれでよかった。奪ったままでいてくれたら、満足だった。

 墓地を舞輝が走り抜けていく。楽しそうだ。杏璃を見つけたのかもしれない。私も杏璃の姿が見たかった。舞輝の駆け抜けた方角に目を凝らすけど、何も見えない。コンクリート塀に区切られた区画の角が、逃げ水のように揺らいで見える。

 振り返ると男が立っていた。日に焼けているのに青ざめた顔色をしている。夏だというのに血の気が失せている。杏璃の夫だった人だった。一番会いたくなかった人間に出会ってしまった。
「お久しぶりです」
 私は頭を下げる。彼も同じように頭を下げた。手にはスイカを下げている。そういえば、杏璃はスイカが好きだった。
 彼はスイカを墓前に供え、手を合わせた。それから、墓前にしゃがんだまま私を振り返って
「一緒にどうです」
 とスイカを指さして言った。

 男に連れられて自宅へ通される。男はまだ杏璃と暮らしていたアパートに住んでいた。高校生の頃の思い出がよみがえる。杏璃はときどきここに私を招いた。ふたりでよくない遊びをしていた。
 切り分けられたスイカはぬるかった。でも、甘い。私も墓前に供えるつもりだった冷菓を差し出した。男はこんなにたくさん、食べきれるかな。一つでいいです。と言った。

 その日は男の家に泊めてもらった。はじめて杏璃の夫だった人と寝た。男は私を杏璃だと思って抱いているのだろう。私も自分が杏璃になったような錯覚を覚える瞬間があった。しばらくどこにも行かず、男と杏璃が暮らしていた部屋で過ごした。
 真夏だった、木造建築の部屋は蒸し暑い。どこからか湿気が忍び寄ってくる、居心地の悪い夏だった。
「杏璃とは仲が良かったんですか」
 仕事から帰ってきて、風呂に入ったばかりの男が言う。
「ええ、中学の同級生でした」
「意外です。二人とも、タイプが全然違うように見えるから」
 私は苦笑いを返す。実家の母からラインが来ていたけど、返事をしなかった。
「杏璃が死んで五年、ですか」
 私のつぶやきに、彼はうなずいた。
「早いものですね」
 杏璃は近所の男とたびたびホテルに出かけていたのだという。葬儀に参加したくなかったのは、杏璃にまつわるゴシップを聞かされるのが嫌だったからだ。墓参りを決めたのは、自宅に舞輝が現れたからだった。
「ままとこ行きたい」
 舞輝は言った。
「でももうママはいないんだよ」
 諭そうと試みて、失敗した。舞輝は毎日私のマンションの部屋の前でうずくまっていた。私が徳島に帰るときには、ついていこうという算段なのだ。
「ひとりで帰れよ」
 私はあきれた。舞輝は道がわからないと言って泣いた。
 精神的にも限界を感じ始めて、私は徳島にわたるバスのチケットを購入した。

 杏璃が男と暮らしていた部屋に来てから、不思議と舞輝を見ていない。
「ねぇ」
 男に尋ねる。
「杏璃はどうやって死んだの?」
 男は答えずに、情けない顔で笑っていた。同情を引くような顔だった。
「あなたが殺したの?」
 男は顔色を変えない。散々いろいろな人に、似たようなことを言われてきたのだろう。慣れている。
「この手で杏璃の顔を殴った?」
 男の手を取った。乾いていて、冷たい手だった。
「死んだ人間は、永遠にあなたのものにならないんだよ」
 私は男の横っ面を張った。思い切り張り倒した。男の首を絞めた。やり返されるかと思ったけど、男は黙っていた。されるがままだった。拍子抜けだ。私は男を激高させたかった。男に殴られたかった。そうして自分の人生を少しでも杏璃に近づけたかった。だけど、私は杏璃ではなかったのだ。あまりにも当たり前のことだった。
 その夜、私は荷物をまとめて彼の家を出た。男の家に転がり込んで、一週間目のことだった。

 帰りのタクシーで、また友達の父親に出会った。
「お母さんがさわいどったよ、娘がおらんいうて。連絡くらいせんね」
「ごめんなさい。沢井さんの家にお世話になっていて」
 運転手は怪訝そうな顔をした。
「沢井さんって、杏璃ちゃんの旦那のことかいね」
「そうですけど」
「三年前に亡くなっとるはずじゃが」
「え?」
 私は自分の掌を眺めた。男の首筋の感触が今も残っている気がする。茫然としていると、タクシーの中に男が一人乗り込んできた。運転手は乗り込んできた男に注意を払わない。男の顔を見る。杏璃の面影を思い出すような。
「ありがとな、沙耶ちゃん」
「舞輝?」
 中学生くらいの年齢に見えた。
「俺、こっちに残るわ。母ちゃんと一緒におりたいから」
 舞輝は私の手を軽く握って、「達者でな」と言って車を降りた。
 タクシーが走り出す。「待って!」窓ガラスに張り付いて舞輝の姿を追った。せめて一目でも、杏璃の姿が見たかった。だけどもう、杏璃や沢井さんはおろか、舞輝のすがたも認めることができなかった。

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