見出し画像

文体の舵をとれ 練習問題➈

 年を取ってから眠りが浅くなった。普段から常に頭に靄がかかったようで、目が覚めてからもなかなかベッドを抜け出せない。枕元に置いたピッチャーから一杯の水を汲んで、ようやく外が白みかけているのを確かめる。先週から部屋を片付けようとしているのに上手くいかない。体が重く、少しのものを移動させるのにも膝や腰が悲鳴を上げる。こんなとき、誰かがそばにいてくれれば、高い場所の埃を落としたり、不用品を分別してまとめてくれる人がいたら。脳裏をよぎるのは娘のヴァルヴァラの顔だ。母親になれば私の苦労を理解してくれると考えていたのに、嫁に出たきりめったに連絡を寄越さない。なんて冷たい、血の通わない人間だろう。おむつを替えたり鍋でつぶしたやわらかいマッシュポテトを与えたり、一から育ててやった恩を忘れているのだろうか。昔はどこへ行くにもわたしの後をついて、ひと時も離れたがらなかった―――
 けれども今日は孫娘のアリナがやってくる。あの子は一族の中でも一番の別嬪で、頬は紅を指したようにバラ色だし、瞳は明るいブルー、日差しに恵まれた日の底まで透き通った湖のようだし、うんと聡明で気が優しい。
 箒で床を掃く。埃で汚れているのか元からこんな色だったのか、もうずいぶん長いこと暮らしているから、取れない汚れが蓄積して片付けても片付けてもきれいになる気がしない。諦めかけたところで玄関のベルが鳴る。
「おばあちゃん」
 換気のために開け放しておいたドアからアリナが飛び込んでくる。目が霞んでうまく焦点が合わない。けれどもアリナの放つまぶしい光が、家の日陰をさっと照らし出すようでわたしは思わず目を細める。
「よく来たねぇ。疲れたろ、おかけよ。あんたの好きなすもものシロップも、ジャムもたくさん作ってあるんだ。ソーダで割ってあげようかね」
「おばあちゃん、あのね、今日は会わせたい人がいて」
 玄関から背の低い男が入ってくる。逆光で顔がよく見えない。眼鏡をかけた、黒髪の男。
「ジュンよ、私この人と結婚するの」
 アリナの声色が弾んでいる。動機がする。見たことのないような醜いアジア系の男がお辞儀をする。思わずそばにあった箒を握りしめる。
「汚らわしい、うちの大事な孫娘に触れるんじゃないよ!」
 アリナはイギリスの大学で学んでいると言っていたっけ? きっとそこでくだらない入れ知恵をされたんだ。だからあたしは反対だった、大事な孫娘を海外にやるなんて!
「いつかこうなるってあたしにはわかってたよ! あんた外国で悪い男に騙されてひどい目を見るって、最初からあたしは反対だった!」
「おばあちゃん落ち着て、私が留学したのはもう十年以上前の話じゃない。私、私もう三十歳なの」
 動機がして、息切れがする。胸が苦しい。大事な人ほど私の手元から遠ざかろうとする。去ろうとする。箒を振り回して男を家から追い払う。アリナの悲しそうな目が体に突き刺さる、だけどその声は意味のある言葉として耳に届かない。聞き取ろうとするほど、ばらばらにほどけていく。そして気がつくと家には誰もいない。冷蔵庫ではいつのかわからないジャム瓶にカビが浮いている。どうして―――呟いた声に応える人はおらず、空間の静けさが重さになって体を縛りつける。

サポートいただけると嬉しいです。記事に反映させます。具体的にはもっと本を読んで感想を書いたり骨身にしたりします。