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心理臨床学会第43回大会自主シンポジウム「精神分析的臨床のフロントライン(4)―コーヒーブレイク✖️私たちは何を考えているか✖️ブリコラージュ—」開催のお知らせ

開催日時:2024年9月22日(日)19:15〜21:15
「精神分析的臨床のフロントライン(4)」
―コーヒーブレイク✖️私たちは何を考えているか✖️ブリコラージュ—


 私たちは2016年から日本心理臨床学会で自主シンポジウムを6回開催してきました。これまでの経過をお伝えし、その流れを踏まえて今回のシンポジウムについて知っていただき、多くの方に興味を持っていただきたいと考えています。

 まず簡単にこれまでのシンポジウムを振り返ってみます。 
 
 それぞれの考え方や実践に温度差はあるものの、精神分析を学び臨床現場でその知を活かしながら仕事をしている仲間が集まって話すうちに、多くの臨床家と自分たちの間には精神分析についての捉え方にだいぶ大きな溝があるようだ、もはや精神分析は「絶滅危惧種」なのかもしれない、といった危機感を持った私たちは2016年に<心理臨床学会における精神分析の位置>と題した自主シンポジウムを開催しました。

 最初の年はその1「そもそも好き?嫌い?役に立つ?立たない?」という問題提起のために準備を重ねて臨み、小さな会場に150名の参加者を迎えましたが、私たちの意気込みに反して、多くの方からは精神分析が危機的というのは企画者たちの被害妄想ではないかという意見とともに、意図されたような対話になっていない、というご指摘をいただきました。
 この指摘を受けて、私たちは自分たちの危機感が果たして被害妄想なのかを考え直し、かつての心理力動アプローチ全盛時代が失われたことを危機と見做すのは被害妄想と言えるかもしないが、基礎理論としての力動的理解が重視されなくなっていることと、精神分析的アプローチがさまざまな治療アプローチの中で選択肢の一つとして生き残っていけるかの危機意識を抱くことは妥当であろうという考えに至りました。
 そこで更なる議論のための基礎資料として過去30年の本学会での口頭発表演題をオリエンテーション別に分類してみたところ、実際には精神分析をオリエンテーションとする発表は減ってはいなかったのです。そもそも本学会では圧倒的多数の発表が臨床現場でどう仕事をしていくかについて検討されており、オリエンテーションでは分類不能でした。つまり、本学会は何よりも臨床現場の学会であることがわかりました。
 さらに、私たちの感じている危機感は本学会にとどまらず、「効率重視の価値観」「肯定的側面の偏重」という社会の中でこころについて考える難しさ、という社会における危機であることが分かってきました。
 こうして2017年にはその2「このままではまずい?それとも勘違い?」を開催し、100名ほどの方に参加していただき、ディスカッションの時間を1時間確保し、レスポンスに努め、活発な議論をすることができました。その内容は、現場レベルでの様々な精神分析的アプローチの危機や難しさ—例えば精神分析的な理解の講義や研修には興味を持ってもらえても、それが現場には定着しないこと—などでした。
 この2回のシンポジウムの経験を経て、私たちが最初に抱いた危機感の実体についてある程度共有することができました。
 
 この段階でこれから何を目指して行くのか、再検討を求められた私たちは再び話し合いを重ね、抱いている危機感にはそれぞれ微妙な違いはあるものの、このシンポジウムは何かしらの統一見解を導くためのものではなく、対話を目指していることを再確認し、それぞれの臨床現場を見直し、自らの当事者性を意識したシンポジウムを企画しました。
 それがシンポジウムその3「心理臨床において精神分析の生きる/活きる場所とは」でした。この回には精神分析的実践の可能性(東啓悟さん)、教育現場(浅野理佳さん)、ひきこもり支援(小牧右京さん)、福島での被災地支援(岩倉拓さん)について4人が話題提供を行い、関真粧美さんに指定討論を引き受けていただきました。臨床現場の難しさの中で精神分析をいかに生かすかという話から、精神分析の考えによって自分が活かされたという体験も見出されました。

 このあと自主シンポジウム企画が抽選になったことなどで2年は開催できずに過ぎました。 
 
 もちろんこの間にも臨床現場での仕事は続き、企画を巡る私たちの話し合いも紆余曲折しましたが、この間に「精神分析」あるいは「精神分析的心理療法」という言葉ではなく、精神分析を活かし、私たちもそれを生きる臨床ということを意味する「精神分析的臨床」という言葉が生まれ、本学会の現場性を改めて見直して2021年はタイトルを「精神的分析的臨床のフロントライン」としました。
 その1はサブタイトルが「現場と出会い、生き抜くための精神分析」、私たちの臨床現場としても難度が高いと思われる刑務所(平野直己さん)、精神科病棟(松本聡子さん)、ひきこもり支援(小牧右京さん)という領域からの話題提供者、そして様々な臨床現場の経験をもつ指定討論者(増尾徳行さん、森一也さん)を得て、開催されました。
 さらに2022年のその2は、前年の内容を踏まえ、こうした厳しい現場でも私たちが感じる面白さに着目したいと考えて「精神分析的臨床の面白さ」というサブタイトルのもと、児童福祉分野(坂口正浩さん)、スクールカウンセリング(日置千佳さん)に話題提供をしていただきました。
 そして昨年のその3は、多くの心理職が働く馴染み深い臨床現場である福祉領域や学校領域とは対極的な現場であり、まだそこで働く心理職は数少ないながらも、まさにフロントラインと言える東日本大震災後10年の被災地支援(岩倉拓さん)とパンデミック下での職員のメンタルケア(木下直紀さん)のお二人にアウトリーチ臨床の話題提供、実践的な経験を持つ精神科医お二人(木村宏之先生と白波瀬丈一郎先生)からの指定討論をしていただきました。

 この3年、いくつもの異なる臨床現場での臨床実践について事例を通して、精神分析的臨床の実際について話し合ってきましたが、こうした困難な現場(フロントライン)での話を聴くと、私たちは「能力の高い人だからできたのではないか」「この人のような臨床経験を経たからこそうまくいったので、自分ではできない気がする」と考えてしまい、なかなか日々の自分の臨床とはつながらない、と思うことがあります。話題提供者からは、「自分が特別なのではない」「環境や共に働く人に助けられたことが大きい」「小さなことを積み重ねただけなのだけれど…」という声を聞くのですが、「いやいや…やはり自分とは違う」と感じてしまうことも否めません。
 そこで、今年はこれまで継続してきた自主シンポジウムの流れの中で、ひとやすみのコーヒーブレイク、階段の踊り場的に、これまでの話題提供者たちに日々どのように行動し、どんなことを考えて実際の仕事をしているのか、その体験や頭の中を覗かせてもらえないだろうか、と考えました。

 このテーマについて話し合っていると、難しい現場へと踏み出し、日々奮闘する臨床家の姿が、未開の地へと分け入り数多くの発見をした文化人類学者のレヴィ=ストロースと重なり、本来はサイコセラピーを行うために設らえられた場所ではないところで、限られた時間にそこにいる人々と、そこにある資源や道具と自分の携えた知を持って、苦しんでいる人と向き合い、なんとかしようとする(manage)のは、まさにブリコラージュそのものだという発見がありました。ご存知の方も多いと思いますが、ブリコラージュ(bricorage)という語は本来、レヴィ=ストロースが「野性の思考」(1962)の中で、構成要素の配列の変換群で成り立っている「神話的思考」を比喩的に示すのに用いた言葉ですが、通常は「器用仕事」と訳され、現在では「ありあわせの手段・道具でやりくりすること」「ある目的のためにあつらえられた既存の材料や器具を別の目的に役立てる手法」と考えられています。しばしば精神分析的臨床は場所や時間、また実施する治療者の資格など定まった構造をもって行われるもの、と考えられていますが、実際にはこうした治療構造の考え方自体も枠組みを把握しておくことで、その場に生じていることを見えやすくするための一つの方法です。非常に大雑把に言うと、そもそも「学校」という枠組みがなければ不登校という事象も出現することがないということに近いかもしれません。
 今回はこれまでの話題提供者の中から、学校現場から日置千佳さん、児童相談現場から坂口正浩さん、被災地支援現場から岩倉拓さん、総合病院精神科の現場から木下直紀さんが登場します。さて、彼らは日々どのように頭とこころを使っているのでしょうか。そしてそれぞれの現場でどのようにブリコラージュを実践しているのでしょうか。

 今年は指定討論者を置くこともやめましたので、参加者の皆さんからの自由なご質問、ご意見、ご討論をお待ちしています。

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