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悔しい【ショートショート】

私がとても悔しいのは、その人が、私の好きな人と仕事をしていたからです。醜い恋煩いにおける邪悪な嫉妬と同じであったので、私は私が余計に醜く思えました。

私はその人を知っています。何年も前から、一方的に知っています。これは片想いのように清々しいものではなく、冷笑的な一方通行でした。彼の音楽は商業主義的で短絡的であったので、内心で小馬鹿にしていたのです。私はその人の知名度と人気を羨んでいました。羨んでいるというより、恨んでいる、と書いたほうが正しいでしょうが。

私は別に、その人のようになりたいとは思っていません。その人のような知名度と人気が欲しいと思っているだけです。第一、ほんとうは私の音楽のほうが優れているのですから。私はそのタイミングとチャンスとを狙っているに過ぎません。そしてそれを、彼が先に掴んだだけなのです。何年も前に。ただそれだけのことでも人は嫉妬するのです。

ことが起こったのはつい数時間前のことです。ずっと楽しみにしていたライブに行ったのですが、サポートメンバーにその人がいたのです。瞬間、私はすべての音を拒絶しました。けれどそれによって会場を後にできるほど、できた人間でもありませんでした。私はライブを楽しみにしていたからです。

これがミステリやサスペンスなら、私は彼を彼のベースで殴ったり、あるいは、好きなミュージシャンのほうを、狂気のままになぶり殺していることでしょう。けれど私はなにもできませんでした。当然でしょう。

心の中では、なにか毒のようなものが、大釜の中でぐつぐつと煮えたぎっています。私はあまりに悔しいので、心に満たされた毒を掬って、一口飲んでやることにしましたが、血の味がしませんでした。汗の味も、涙の味もしません。私はほんとうに悔しいのでしょうが、私はほんとうに悔しいのでしょうか。

筒井康隆の「あるいは酒でいっぱいの海」という短編があります。海が酒で満たされる話です。私は私の毒が、海よりも、酒よりも、無味で無臭であると思いながらも、海というものは、こういう毒で満たされているのではないかと思わずにいられませんでした。

誰でも、悔しがったり、悲しんだり、怒ったり、やきもちを妬いたりします。けれどその根源となった毒を裏打ちするものは何でしょうか。「血と汗と涙」の毒を持っている人は世界数十億人中何人でしょうか。私のようなものが他にいないとは思えません。そういうところも悔しいのです。

私は先を越されたことが悔しくてなりませんが、唇を噛むことさえしませんでした。冷や汗すら出ませんでした。泣きませんでした。きっと、心のどこかで、諦めているのだと思いました。あるいは、「血と汗と涙」をじっくり熟成してどくにしなければならないのに、それが怖いのかもしれません。「血と汗と涙」を結晶化させるためには、圧力を高めなければなりませんから、それが私まで潰してやしまわないだろうかと、怖くてこわくて仕方ないのです。

悔しいと思う気持ちは、こうやって不特定多数が見る書き物にしてしまうとラクになるものです。私は音楽家ですから、文章で食っていくこともないので、どんな駄文を書いても許されるわけです。けれども、こういうことをしている間に、悔しい気持ちを曲にする努力くらいすればよかったのだ、と、思わないこともありません。

ところで私は「悔しい」と幾度も繰り返していましたが、実のところ、悔しがってみることで、私は彼と同じ土俵に上がっているのだと思い込みたかったのかもしれません。けれど2階席とステージは違います。私は彼を見下ろす形になっていましたが、ほんとうに見下ろしてやりたかったくらいでした。ずっと俯いていたことを、いま、思い出しました。やっぱり悔しいと思います。


2024年4月30日 薊詩乃

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