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遥かなる、希望のルルイエ

「この世界が、嘘であればよかった」

水槽の脳に繋がっているなら、そのぶんだけ幸せだ。
経験機械に繋がっているなら、そのぶん救いになる。

けれど現実はそうではなかった。だからこそ、あの場所・・・・は希望なのだ。


芸術家が描くのは現実である。

現実に不満を持っているから、芸術という形で世界に楯突くのだ。
芸術をせざるを得ないから、芸術をやっている。

勉強・就職・結婚・出産……そんなまともな・・・・生活をおこなっていられないのが芸術家である、そう彼──ノア=ミ・ザ──は信奉していた。

しかし、《芸術家》とは、どうやら、芸術をやることが許される属性のことを指すようだ。ノアがそれを知ったのは随分前のことだが、すなわち、芸術にかまけていられるほど、金を持った人間が芸術家であることを許されるのだ。

芸術にはエネルギーが要る。
明日の寝床を探さなくていいから、絵を描いていられるのだ。

ノアは、自身の中で溢れ出す衝動を芸術という形で発散する他なかったのに、周りを見れば皆金持ちだったので、ますます嫌悪が膨らんでいった。


ノアは世界が嫌いだった。

学校が嫌いだった。泣いている奴がどんな顔して笑っていても、大人がそいつの味方だったからだ。

ニュースが嫌いだった。ニュースになる命とならない命とを、名前が出る命と出ない命とを知ってしまったからだ。

東京が嫌いだった。《東京》なんてものはないのに、東京の東京性を担保するために平気で人を追い出すからだ。

インターネットが嫌いだった。どうしようもない人たちが、どうしようもないくらい沢山いることを知ったからだ。

ノアは、それが如何ともし難いほどに苦しかったのだ。

ノアには両親がいて、そのまた両親もいた。あるときそのうち誰かが言った。「自分が若かった頃から、技術だけが進歩して、時代はひとつも変わっていない」と。けれど空飛ぶ車はまだない、と。

ノアは思った。人間が変わっていないからだ。戦争はずっと終わらない。景気はこれっぽちも良くならない。気づいたらまた戦争しだす奴が出てくる。

「これまでの数千年も、これからの数千年も、きっと同じなんだろう」

そう思った瞬間、ノアの宇宙を絶望が貫いた。

絶望は、日ごとに強度を増していく。世界は今日も最悪だからだ。インターネットは今日も価値がない暴論を正論に見せかけている。

ノアは、「生きるのは素晴らしい」とか「人生は美しい」とか、そんな性善説に唾吐く人間になった。

そんなある日だった。ノアが選ばれたのは。


夢を見たのだ──深く、暗い、海の底から、呼びかける声がする。その声の主が誰なのかは分からない。なんと言っているのかさえ、そもそも言葉なのかさえも。けれどその声の主は、とても強大な存在であるように思えてならなかった。

夢から覚めたとき、ノアは、全身を汗や涙で濡らすほど恐怖していたが、同時に、例えようもない安堵感に包まれていたことに気が付いた。

ノアの芸術はそこから始まった。毎夜のようにその夢を見た。夢のイメージを世界に届けるには、芸術しか方法がないと直感したのだ。

夢はだんだんと鮮明になっていった。少しずつ、夢のなかで自由に動ける時間が増えていった。
ノアは夢の中で神殿を探索した。海の中は神殿のようになっていった。柱の意匠は幾何学の性質から遠く離れ、その素材も何か異様なものであった。ほかに誰もいなかったが、その声の主だけは、どこかにいることが分かっていた。

ノアは寝ても覚めても、あの場所について考えていた。寝食を忘れて絵を描いた。どうしても、あの海に近づきたかったのだ。あの海で眠る、大いなるあの声の主……その正体を知りたかったのだ。

ノアの描いたその絵が、都内の小さな展覧会で賞をとったとき、ノアは人生を変える出会いをする。


その不気味で得体の知れない絵の評判を聞きつけて、とある古物商の老人が、ノアの元を訪れた。

「どうしても見てもらいたいものがあるんです、きっと気に入ります」
「あいにく、私には金なんてないんですよ、あの絵だって、大した額にはならない」
「いいえ、いいえ、あなたでないと、あの絵を描いたあなたでないと、この《粘土板》の価値は分かりません」
「《粘土板》……?」

そう言って、古物商は風呂敷の中からそれを取り出した。

「いいですか、わたしだって、これの正体を知っているわけではないのですよ。ですから何も詳細はお答えできません。ですがわたしは、この《粘土板》に描かれているものをあなたが描いてらしたので、どうしても、これをあなたに差し上げないといけないと思った次第なのです」

男が言う通り、ノアは《粘土板》に描かれているものを知っていた。あの柱が描かれていたからだ。自分はこれを見たことがあって、その記憶が夢を呼び起こしたのではと思ったが、

「この《粘土板》は、50年以上前に、わたしの父が死んだときに、相続されたものです。わたしの父も古物商をやっていましたが、これを家の箪笥から出した日はないと言っておりました。わたしだって、こんなもの、今日という日になってはじめて、家の外に持ち出したのですよ」

と言うので、ますますノアは恐怖した。何より恐ろしかったのは、

「これ……この、描かれているものは何なんですか。タコのような、ドラゴンのような……」
「分かりかねます。わたしの父も、これをいつどこで入手したのか、そもそもこれは一体何なのか……一切を語ろうとしませんでした」

ノアは直観していた。この怪物が、声の主であると。
そして、この《粘土板》が存在するという事実がすなわち、あの海底神殿と怪物が実在するという何よりの証拠であると思った。それほどに、この粘土板の出来は精緻で、現実味があったのだ。

「ですが──」
「何です」
「わたしの父は、この《粘土板》について、ひとつだけ、情報を教えてくれました」
「それは何ですか、教えてください」

古物商は、いつの間にやらぜえぜえと息を切らしながらその《粘土板》を見つめていたが、やがて言った。

「名前です」
「名前?」
「この場所の名前です」
「それは、この海底神殿の名前と言うことか?」

古物商は頷いた。

「なんという名前なんだ」
「それは──」

「ルルイエ……地域によっては、ルリエーとも呼ぶ、と」


古物商は押し付けるようにしてその《粘土板》をノアに渡し、一目散にその場を立ち去った。

ノアは、じっと、ただじっと、ルルイエの風景を見ていた。

その夜、また同じ夢を見た。しかし、今までとは比べ物にならないほど、自由にそこを泳ぐことができた。名前を知っているからこそ、この場所との親和性を高まったのだと、ノアは思った。

「声の主よ──」

ノアは言った。

「あなたが、何という名を持っていらっしゃるか、今の私は分かりませんが、けれど、あなたが神様であることは分かります。そうとしか考えられません。この私をお呼びになった理由は分かりかねますが、けれども私があなたの夢を見られていることは、何より僥倖に思います」

「神よ、あなたが教えてくれたことは、この世界が嘘である・・・・・・・・・ということです。だって、どんな聖典や教科書にも、あなたの存在が描かれていなかったではないですか! われわれが信じるところの過去や歴史や宇宙が、あなたの存在を隠していたり、あるいは知らなかったりしたのであれば、それは私にとって希望以外の何物でもありません」

「この世界や、この世界を成立させている道徳や科学なんてものは嘘っぱちで、そうであるなら、この世界に絶望していた私が、世界を生きるための大いなる希望になるのです」

「すなわち私の生きる意味は、あなたになりました。これを信仰と呼ぶのですね。私はいつか、あなたの御名を知り、あなたの座標を知り、あなたの歴史を知り、あなたにこの身を捧げに参ります。その日まで、どうか、私が芸術家であることをお赦しください。
生きるということは、やはり絶望であるからです。私が絶望を描くとき、そこには、あなたという世界を世界が知らないことへの絶望も孕んでいることをどうか知っていてください。それほどまでに、生きるとは絶望なのです」

朝を迎えたとき、もう汗をかくことはなくなっていた。ノアの心にあるのは、偉大なる神への信仰と、相変わらずの厭世観のみである。

……

あれから何度太陽が昇ったか。
ノア=ミ・ザは今も芸術を行なっており、大きな美術館で個展をやるほどに成長した。

やがて神の名を知り、魔術の知識を得たが、それはまた別の物語である。


2024年3月23日 薊詩乃


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