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【自己紹介風】薊 詩乃、作家志望、匿名希望

深く暗い海の中で、薊 詩乃アザミ シノが揺蕩っている。
クトゥルフ神話TRPGのシナリオや戯曲の執筆経験があるが、未だ何者でもない、R'lyeh神殿の浮浪者である。

《るるいえのはこにわ》という劇団を海底からを浮上させ、自らの書いた戯曲を上演しようと目論んでいる。

薊は、物語が好きであるが、本を読んできたわけではない。
学校の図書室や学級文庫には決まってヘビーユーザーがいただろう。
それは私ではない。

むしろ、薊は空想家である。
だから物語を書きたいと思うようになった。
頭の中ではほとんど常に、自分や世界を馬鹿にするような、モノトーンのストーリーが蜘蛛の巣状に展開されている。
けれども、枝葉末節はクレヨンで描いたように粗く塗られている。

薊は知的好奇心があるほうだ。特に哲学的思想への関心が強い。けれども、哲学科を出たわけではない。
それでもそういうものが好きであることには変わりないから、勉強をしている真っ最中なのだ。あまり進んではいないが。

そんな薊詩乃は、愚かしくも作家になりたがっているわけだが、いったいどんな物語を書こうというのか。

まず、薊は、《人を笑わせたい》という欲望を抱いていた。
そういう時期があったのは事実であって、薊自身もそれを記憶しているが、その時期がいつ終わって、どうして厭世人に成り下がっているかは覚えていなかった。
笑顔を生み出したいという想いも、人が嫌いである理由も、深層水をさらってみれば、同じ色と味がする。すなわち、薊には成功体験がないのである。

自分が社会に認められたことがない。世界から良い評価を得たことがない。こんなものは当たり前だ。まだ何も為していないのだから。
しかし、試験に合格したこともなければ、あのとき制服だった群衆に好かれたこともないのだ。
幸運にも幸福に育ってきた人間のうちのほとんどは、10代のうちに成功体験をしている。多くの場合それは高校受験であったり、部活動の大会であったりと、青春と名付けられた日々に、ほとんど通過儀礼的に経験する。その経験によって、《あの時頑張ったから今も頑張れる》《やればできる》《努力は必ず報われる》と、自信や未来への活力を得ることができるのである。
しかし薊にはそれがなかった。薊の体内を流れる血液は、白血球が悔恨を喰うのに忙しいという実情がある。

悔恨──青春というものは、何度その名を言っても胸が痛む。

あの日の制服の君を笑わせたかった。
隣にいた誰かになりたかった。
しかし年を取った。その時代は終わった。
今や次第に疎遠になって、どんな顔をしていたか思い出すのも難しい。出来損ないのフィルムみたいな記憶の断片が、瞬間、脳裏に明滅するばかりである。どの大学に行ったとか、どの企業に就職しただとか、そういうことを知る術すら、薊は持ち合わせていなかった。
今になって制服の君を恋焦がれることはない。そして、だからといって呪いはしない。薊が呪っているのは、生きているこのディストピアと、薊自身の──ハイデガー的な──存在である。

失敗や過ちは数えきれず、ここではとても記述できない。
生きていても仕方がないと思った夜が何度もある。
深い絶望や後悔を──そのひとひらひとひらを、この汚れた両の手で拾い集めたら、ひどく大きなアザミの花を作り上げることができるだろう。
その花は、捨て置かれた幸福という淡い日光で照らされて、《我が意を得たり》と皮肉を言いたげに、醜悪な花弁を広げているのだ。孤独な夜のように毒々しい紫の花片は、例えるならラブクラフティアン・ホラーに描かれる怪物の触手である。ぐらぐらと酸を沸かして、ぼと、ぼと、と垂れたところから地面を溶かしている。
薊自身、この花さえ完成すれば、その生に終止符を打つことができそうだと思っていた。だがそれが恐ろしいから、ずっとR'lyehに揺蕩っているのである。

しかし今、薊は傲慢にも物語を綴ろうとしている。
何も世に出さないままでは、くすぶる言の葉は華氏451度で燃やされることすらないが、それがどうにも耐え難かったからである。

心の奥底に眠っている怪物を信じたい。
屈折した愛憎と世界観を認められたい。

ゆえに浮上が行われることになった──

《るるいえのはこにわ》は、今このように書いた、鬱屈した自己認識を社会への諦念へと変換し、思想小説めいた読後感をもたらす作品を上演する予定だ。
そしてその戯曲を描くのは、この薊詩乃である。

──

見よ、波は、招かれざる者の到来を祝うように揺れる。
見よ、風は、死ぬはずだった者を憂うように舞う。
見よ、人は、忘れていた嫌悪を思い出したかのように笑う。

2023年2月某日 薊 詩乃


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