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映画『捨てがたき人々』感想メモ

映画『捨てがたき人々』感想メモ

※ほぼネタバレなし

ジョージ秋山原作の欲望の、そして性と死の物語。

そういう意味では、この間みたキム・ギドクの「メビウス」や「悪い男」とも通底しているかもしれない。

――捨てがたきもの。

その人間の「欲」「性」の畜生的な姿をほりさげて、
最低最悪な人間の愛?のあり方、
あるいは、どうしようもなさを描いていて
(ある意味、業の深い「生」を肯定してる、
それでも生きていくのが人間なんだってまなざし)
こちらは日本的にそれをやってる。

性と死。
そのつらなりの中でうごめき、もだえる人間模様。

こういうのは韓国産の方が迫ってくるものはあると思う。
役者の存在感か。
集中してる「気」みたいなものの質が違う。

でも、原作の持っている重さは韓国産の映画に負けてない。
死んだ魚のような目になって、
ざわざわどろどろさせて、
どっぷり最下層のドブくずの痛みを味わえると思う。

まあ、映画も頑張ってて
物足りないけど、
その手触りを立体化させることに成功してるかと。

原作より、女優さん(三輪ひとみ)がきれいなせいか、
なんだか少し瑞々しい。いいところでもあるし、
獣の領域の、破れない壁みたいな部分でもある。
いい人なんだろうなあ。
体当たりでやってくれてるんだけどね。

大森南朋もがんばってるとは思う。
ただ、これより上質の芝居・演技があることを
知ってしまってるし、観てるから、
どうしても食い足りないと思ってしまう自分がいる。

ともあれ、原作でもそうだったけど
主人公の「生きるのに飽きちゃってさあ」ってセリフが
やはり痛烈。
そうなったら、もう人間どうでもいいもんね。

だけど、性への執着だけは捨てがたい。
死にたいはずなんだけど、尻みちゃったり。
襲っちゃったり。

怖いもの知らずが一番怖い。
なんでもできちゃう。捨て鉢で。

軽く内容に触れると、
生きるのに飽きて疲れちゃった労務者風の男が
なけなしの金を持って故郷の島に帰ってきて、
最後はここで死ぬかあ、みたいにぼーっとして、
ぼーっとしてんだけど、
目は女性の体ばっかりみちゃって、
そのうち弁当屋の顔に痣のある女の子と知り合って
優しくされて、不思議だなと思ったら新興宗教に
はまってる子で、笑顔がキュートで
その子を犯そうとして……

ってな感じで、続いていくわけですけど
続きは本編を見ていただくとして
まあ、西も東もセックスなことは間違いないですわ(笑)

あ、これ、劇団ポツドールの三浦大輔(「愛の渦」の人)に
リメイクしてほしいな。
セミドキュメンタリーチックにやったらどうなるのか見てみたい。
はまりそうな気もする。

まあ、この映画の出来がけして悪いわけじゃないが、
でも原作はもっとぐっと重い、
業の臭いとかまで届いてるものだから
そこからすると、個人的には
どうしても食い足りなさはある。

にしても、みんななんだかんだで
獣みたいにセックスのハードルが低いなあ。
こんなこと言ったら、田舎の人に怒られそうだけど
僕も田舎育ちなのでいってしまうと、
実際、今はともかく、昔の田舎では、
今よりセックスはあらゆる倫理をこえて、
夜這いとか含め、どうしようもなく、
どろどろとはびこっていたと思う。

人間的にではなく、動物的な感じで。
あるいはお祭りや風習・因習・風俗的なもので。
女性が大変な時代だったなとも思う。

地球のどこかでは、いまだにすごいところがたくさんあるけど。
好きな女を誘拐して嫁にしたりする国もあった気が……

ともあれ、まあ、人間って生まれたときから人間じゃないし、
人間として教育をうけて、人間になっていくものだから。
最初はみんなただの猿、動物、畜生だもの、
あたしゃあ、現代人でよかったよ。

狼に育てられたら狼のまんまだったし。
体の構造や臓器的なものは人間だったけど、
持っている文化・文明(会話や物の食べ方)は、
狼そのものだったはず。

あ、この物語ではドストエフスキーの「罪と罰」が
語られるんだけども(「罪と罰は本当に不朽の名作だから
ぜひ読んでみてほしい」)、面白いのは、
「罪と罰」に出てくる聖女たると思えたヒロイン――
顔に痣のある女の子だキョウコが
生きてるのに飽きちゃった主人公と結婚して、
しばらくたったのち、変化していって、
主人公に「愛してる」といってみてくれないか?
といわれたときに、「え?」となって踏み絵のように、
躊躇する反応をしめすところ。

人間て、わからんものやなあ。
捨てがたきものに流されて……。
あーあ~……ってなっちゃう。

どうしてそうなっちゃうのか?
犯人探しは意味ないんだけどさ、
愛してくれなかった父母を恨んでも
そのまた父母も愛されてこなかった経緯があって
どこまでいってもきりがないから……

ただ言えるのは、人は愛されてきた分しか愛せない、
優しくされてきたぶんしか優しくできない、ってことかな。
(育てられてきたようにしか育てられないわけではない。父母じゃなくても、注いでくれる本当の愛があればいんだよ、人間は)

この映画の命題ともいえるけど、
何のために生まれてきたのか?
っていう、明確なこたえなんて誰も持ってなくて……

その生まれてきた意味というか、
どうせ最後はみんな死ぬのに
生きていく意味がわからない、
ってところで、真摯に躓いてるからこそ
「生と死」あるいは「性と死」
なかんずく「捨てがたいもの」に対して
あまりにも愚直で、
こっけいなほど執着してしまって、
だけど、それでも生きていくしかない、
それで、その業の深さが終わらずに続いていくこの感じが、胸にもやもやと残るのかも。

畜生のクズから脱出できずに
六道輪廻でもがき続ける負の連鎖……生と性の悲哀。

命の高みには向かわず、
なしくずしに粗末にしてしまうしかない人々の連鎖――人間。

本作は僕からすると、上記の悲哀がぐわ!っと立ち上がりそうで
立ち上がらない、食い足りないところで終わるんだけど、
わざとかな。

「メビウス」的な終わり方のすると
俗っぽくからかな。
ちゃんとまあ、まとまってると思うし、
「捨てがたき人々」のまんま続いてく感じは
あったと思うけど……なんか惜しいラスト。
はみだし感が物足りない。

もっと、原作みたいに疲れるくらい
ずーん!とぐわ~!と人間の業のにおいがたちのぼって
クラクラさせてほしかったなあ。

あーでもこれ、ご当地アピールで作られたものなのかあ。
じゃあ、無理だなあ(笑)
これでも、大丈夫なのか?ってくらいの内容だから。

島の人たちが許して受け入れたのは、
監督がこの島出身だからなのと、
実際否定できないものがあるからかなあ?
たぶん。

でも、否定できないもの――人間の欲というもの――は
島の人がどうとかじゃなくて、万人が無視できないくらい、
本当はみんなそうだ、みたいなところがある。
ここではそれが過剰にむきだしになっているだけ。

その辺、劇団ポツドールも突いてくるテーマだからなあ。

たか『来島者への「おもてなしの心」を持ち、
五島市の経済活性化に貢献する事を目的とし……』
って、この映画のベクトルでそれ言うのか?(笑)

ああ……秋山さんの「アシュラ」もまだ観てない。
観たい映画が溜まりまくる、読みたい本が溜まりまくる。
これもまた果てなき欲だが、自分を高めたい分
少し人間的かな(笑)

水もしたたる真っ白い豆腐がひどく焦った様子で煙草屋の角を曲がっていくのが見えた。醤油か猫にでも追いかけられているのだろう。今日はいい日になりそうだ。 ありがとうございます。貴方のサポートでなけなしの脳が新たな世界を紡いでくれることでしょう。恩に着ます。より刺激的な日々を貴方に。