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幸せに依存しない生き方

「心地よい環境」という罠

 少し前に流行った 人を駄目にするソファ という物をご存知だろうか。

一度そのそのソファに腰を下ろしてしまえば、心地よすぎるがあまりに、何に対するやる気も起きなくなり、ただひたすらリラックスの海へと深く沈んでしまい、人間が駄目になる。というソファである。
このソファは自虐的かつユニークなキャッチフレーズでSNSやインターネットを媒介に流行った。

しかし、これは一歩引いた視点から見てみると大変な事だ。

ソファ単体の話であれば、駄目になる部分もせいぜい
その日一日のタスクが完了し得ない といったところだろうが、このソファを自分の置かれている環境、1日のタスク を 人生においての目標 としてみると、瞬く間に恐ろしさが浮き上がってくる。

ソファ = 心地良い環境 というのは人を「もう少しこのままでいたい」と感じさせ、次第に「ずっとこのままがいい」と思わせる。幸福度が上昇すると人間の思考は言い様の無いふわふわとした物でいっぱいになり、判断が鈍り出すのだ。

鈍った判断力はやがて、目標までの視野をぼやかし始める。

楽しい飲み会で終電が無くなることを解っていながらも、その場に居続けてしまうあの感覚こそがそうだ。
結果として高価いタクシー代を払わなければいけなくなったり、始発まで時間を潰さないというハメになる。

勿論自分を律する事の出来る人間はいる。
そんな優秀な人間は共感出来ないかもしれないが、心地よい環境に抗えない人間というのは大小あれど、そこかしこに存在する。貴方も周りに心当たりがあるのではないだろうか。

そんな人間が「心地よい環境」にハマるとどうなるか。
ただズルズルと「心地よいだけ」の時間が過ぎていくのだ。

よく「幸せになりたい」と口にする人にとって
「幸せ」とは何を意味するのか。

「幸せ」とは人それぞれであることに違いはない。
食べる事が幸せ、寝る事が幸せ、仕事をうまくこなして称賛される事が幸せ、大金を使って贅沢に遊ぶ事が幸せ。そのどれも否定することは出来ない。 「幸せ」とは個人の主観によって成り立つモノである事は、紛れもなく事実。
慎ましやかな生活の中で愛に溢れた生活をするも、
贅沢な暮らしの中で一人成功に酔いしれるも、本人が幸せだと思えば幸せなのである。

ただ、それは明確に「自分の幸せ」を持っている人の話。

では漠然と「幸せになりたい」と口癖のように言う人にとって
「幸せ」とはなんなのだろうか。

愛され、承認され、やりたいことをやれて、欲しいものが揃い、全てが思い通り。それが「なりたい幸せの形」なのだろうか。例えそうであったとしても誰にも文句はつけられない。

問題はそういった人間の多くが「幸せにはなりたいが、その為に犠牲は出したくない」と思っていることではなかろうか。

この場合の犠牲とは
やりたいことが出来る環境までの道程を歩くリスクや労力
思うように愛されるためにするべき勉強
欲しいモノを手に入れられるだけの財力を得る過程
「幸せ」を得るための努力やリスクの事である。

大抵の人間は今日を生きるだけで精一杯。
得られるかどうか解らない「幸せ」のために、安定した今の環境を捨てることは非常に下しがたい決断である。
そうして踏み出さないでいる間に「幸せ」を得る機会をどんどんと逃していく。

歌にもあるように「幸せは歩いて来ない」のだ。

「幸せを得るために歩き出せない 」人間はやがて、元々欲しかった幸せのグレードをどんどんと下げ、

その結果、「幸せ」は「心地よい環境」へと姿を変えていく。

そうなるともう止まらない。
かつて得たかった「幸せ」とは掛け離れたところへ
「漠然と幸せではない」人生を歩み始めるのだ。

「心地よい環境」=「幸せ」?

さっきも書いた通り「幸せ」とは自分から迎えに行かなければ手には入らない。そんな状況で「心地よい環境」を求め始めると、人生は途端に速度を落とし始める。

「心地よい環境」というのは「幸せ」に比べて格段に手に入れやすい。その時間、その瞬間の幸福度が高くなればすぐに手元に転がり込んでくる。しかしそれはあくまで「瞬間的な幸福」でしかなく「長期的な幸せ」とは全くの別物なのだ。

瞬間的幸福度は簡単に得られるため、「幸せ」へ歩み寄ることをしない人間にとっての「心地よい環境」となる。「心地よい環境」は、より人間をその場に留まりたいと思わせ、歩みを留まらせる。そのため「幸せ」までの距離は一向に変わらない。

「瞬間的な幸福」は人生において点でしかなく、故に振り返った時にようやく「幸せ」とは別物だと気づく。

「幸せ」へ向かうというタスク をこなすことを阻害するソファこそが、貴方の甘んじている「心地よい環境」なのだ。

あなたにとっての「幸せ」とは?

ダラダラ長々と同じような事を書いてきたが、端的に言えば
「幸せ」が運良く転がり込んでくるのを待っているような
「心地よい環境」にズブズブの人間は一生「幸せ」には
なれないということだ。

しかし、それがなんだというのだ。

社会通念としての「幸せ」は全員が目指している事を前提としており 、「幸せ」になりたくない人間などおらず、「幸せ」とは、いい学校を出ていい会社に入って、家族をもって家族の為に働いて死ぬ事を指す。

漠然と「幸せ」を欲する人間は洗脳に近い集団意識によって、この無意識に作られた「幸せ」を得なければいけないと思い込んでいるだけなのだ。

本来「幸せ」は主観によるもの。
やりたくないことをやらず、やりたいことをやって死ぬ事を「幸せ」と呼ぶことも正しいはずなのに、端から見ている人間は「あれが幸せなワケがない」と決めつける。

自分たちの理解しうる「幸せ」の形では無いからだ。

いわく

そこに恋愛が無ければ「幸せ」ではなく

そこに家族が無ければ「幸せ」ではなく

そこに努力が無ければ「幸せ」ではなく

そこに実績が無ければ「幸せ」ではなく

そこに感謝が無ければ「幸せ」ではなく

そこに贅沢が無ければ「幸せ」ではないのだ。

そんな制限ガチガチな「幸せ」がはたして本当に必要なのだろうか。いわゆる、社会的な「幸せ」など求める必要などあるのか。そんな「幸せ」になりたいと本当に思っているのだろうか。

「幸せ」になりたいと頻繁に口にする人間は
「心地よい環境」に肩まで浸かって一向に動かない。
心のどこかで、そこまでして得る物ではないと解っているからだ。

それでもどこかで見た誰かの「幸せは」を求めるが故に、手に入らない苦しみを感じるの。

一度、そんな「幸せ」などいらないと割り切ってしまえばいい。

今いる「心地よい環境」に身を任せ、社会的評価しか得ることの出来ない虚構の「幸せ」を諦めればいい。
我々のような人間はどうせ、そんな「幸せ」になったとしても
決して満足などしないのだ。

漠然と「幸せ」に依存するということは、自分にとって本当に必要なタスクを放棄し、社会的概念に取り込まれる思考放棄に過ぎない。

「幸せ」への道はいつも無数に存在する。
問題はどれが自分にとって本当に「幸せ」であるかどうか。
どの道にだってそれなりの苦労や苦難はあるだろう。
その苦難を乗り越えてまで掴むべき「幸せ」を見つける事が「幸せ」への一歩である。

本当に欲しければ今すぐ取りに行けばいい。
そこまでして要らないと思ったのなら
それはアナタにとっての幸せではな無いのだ。



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