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ピールヶ小島の流人

愛知県が生んだ天下人と言えば、信長、秀吉、家康ですが、実はもう一人います。
源頼朝。
母親が熱田神宮の宮司の娘ということから、当時の仕来りとして、母の実家で生まれたのではないかと言われています。
波乱の多い人生を歩んだ源頼朝を妄想しながら、普通はあまり食べない物を食べられるようにしてみた記録。


材料

国産レモン 2個
蜂蜜    大匙3

レモン、ジュースにするか、揚げ物に絞るか紅茶に入れるか、そういう使い方が多いかと思います。
つまり果肉や果汁は使うけど、皮は使わない。しかし皮にもビタミンCやクエン酸は含まれています。それを料理。
皮は英語でpeel、ということでピール、ピールヶ小島ということで、蛭ヶ小島に流された源頼朝の前半生を妄想。


レモンをしっかりと洗う。

注意すべきこととして、絶対に国産レモン使用のこと。輸入レモンは防腐剤やワックスを塗っています。輸入レモンの皮は食べられない。
和歌山や瀬戸内等、温暖な地域でレモンは栽培されています。
私は信頼出来る業者から和歌山のレモンを取り寄せて使用。それでも念のために水、更に塩で揉み洗いしています。


レモンをくし形切り。

源義朝の三男として生まれた幼名、鬼武者が後の頼朝。
母親が正室であり、実家が熱田神宮の宮司ということから、早くから跡継ぎと定められていました。長幼の序よりも母親の実家が物を言う時代。
平治元年(1159)に起こった平治の乱が初陣。当時、12歳。
この時、一時的に都を占拠した源義朝らはお手盛りの人事を行い、頼朝は右兵衛佐という官職に任じられ、以来、佐殿と呼ばれるようになる。
大まかに言って、この乱は平清盛と源義朝の争い。平家一門が熊野詣でに行った隙を突いて、義朝らは都を占拠したものの、取って返してきた清盛らに敗れ、源氏一門は都落ち。


果肉を削ぎ取る。

戦には敗れたものの、頼朝には不思議な運があったものか、最初の幸運が訪れる。
東国を目指して落ち延びた義朝と三人の息子、長男の義平は別行動。次男の朝長は戦闘で受けた傷が元で死亡。
季節は冬で、木枯らしと雪が降る中、頼朝は父達とはぐれてしまう。これがよい方に向かう端緒。
父の義朝は尾張まで逃げ延びて、家人であった長田忠致の元に身を寄せるが、風呂を勧められて、入浴中に襲われて死亡。
父に同行していたら、頼朝の命もなかった?

皮を細長く切る。

はぐれた頼朝は結局は捕らえられる。敵将の嫡男ということで、頼朝の命も風前の灯。
しかし、ここでも思わぬ幸運。女に命を救われる。
その女性は池禅尼。平清盛の継母。
早世した自分の息子、つまり清盛にとっては腹違いの弟である家盛と頼朝が生き写しであるということから、池禅尼は頼朝の助命を嘆願。
聞き入れてくれるようにと断食まで始める始末。これに折れて、清盛は頼朝の処刑を取りやめる。
死一等を減じて、伊豆への流罪を言い渡すことに。


皮と蜂蜜、果肉から絞った果汁を大匙2入れて沸騰させ、水分が飛ぶまで煮詰める。

伊豆に流された頼朝の配所となったのが韮山にある蛭ヶ小島。
島とは言っても川の中州で、文字通り蛭が多く生息していたとか。
この地で頼朝は読経三昧。父や兄、戦死者の御霊を弔うため。
こういう生活がほぼ20年。しかし本当に父兄の菩提を弔う気があるのならば、出家しそうなものですが、そんな風はなし。ということはまだ俗世でやるべきことがあると考えていたのではないか。


水分が飛んだら、オーブンへ。100°で15分。

この地で頼朝の運命に大きく関わるのはやはり又、女。
監視役の一人であった伊東祐親の娘、八重と恋仲に。子を成したものの、忠実な平家方であった祐親は子を殺し、頼朝にも刃を向けようとする。しかし、次男の祐清が頼朝にそれを告げ、頼朝は逃げて命拾い。
逃げ込んだ先が北条時政の館。
その娘がいわゆる政子、後の尼将軍。彼女については↓

今度は時政の娘、政子と恋仲になった頼朝。
伊豆という田舎では、都落ちして来た源氏の貴公子、頼朝はやはり眩しい存在だった?
この時、時政は都に出仕していて不在。しかし戻って来て、娘と頼朝の仲を知ると、やはりこれもいい顔をせず。それどころか事が大きくなる前にと、政子を平家方の山木兼隆に輿入れさせようと図る。
二人は恋の逃避行。
伊豆の走湯権現に逃れた頼朝を追って、政子もそこへと駆けつける。
この情熱に打たれたか、止む無く時政も二人の結婚を認めることに。


ピールヶ小島の流人

からからに乾かなくても結構。水分が残っている位でもよし。加熱したことで食べやすくなりました。蜂蜜の微かな甘味がレモンの酸味をマイルドにしています。
甘味がもっと欲しい時は砂糖を塗して下さい。残念ながら、どかた家には砂糖という物質が存在しないので、それは出来ません。
私には微かな甘味と酸味で丁度よし。

やがて平家打倒の旗揚げをした頼朝が最初の標的としたのが、山木兼隆。


紅茶に入れても、微かな甘味が楽しめます。

という風な話になっているのですが、詳しく検証してみると、伊豆時代の頼朝の逸話にはどうも疑わしい点が多い。
韮山の蛭ヶ小島、史跡となっていますが、実はここが配所だったと言われ始めたのは江戸時代のこと。吾妻鏡には蛭島と書かれているので可能性は高いかもしれませんが、確かに此処とは言えず。発掘調査しても平安時代末期頃の生活痕は確認されていないとか。
実は山木兼隆が伊豆にやって来た前年には、頼朝と政子の間には長女の大姫が誕生しているので、山木との婚姻話は有り得ない。ロマンスを盛り上げ、後の旗揚げに因縁話を絡めた?とも思えます。
武家政権の創始者となった源頼朝を伝説的な存在にするために、後世の潤色がかなり入っているのではないか、そんなことを妄想しながら、ピールヶ小島の流人をご馳走様でした。


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