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サモ桜田門外の変

印度料理のサモサ。
カレー味のマッシュポテトを餃子の皮っぽい物で包んで油で揚げた料理。
グルテンフリーな米粉で作った皮でサモサを作りながら、赤鬼と呼ばれた人物を妄想した記録。


材料

米粉       120グラム
ジャガイモ    2個
生姜       半欠け
山芋       5センチ
モロッコインゲン 1本
大蒜       1欠け
唐辛子粉     小匙1/4
酢        小匙半分
塩        小匙半分
ターメリック   大匙2
ガラムマサラ   小匙半分

徳川家の譜代筆頭と呼ばれる井伊家。実は元々、遠江の国人で三河の徳川家の家臣ではなし。それはともかく代々、彦根十二万石の殿様。
文化十二年(1815)その井伊家に生まれた鉄之助が後の井伊直弼。
!?
鉄之助とは何たる因縁。このことは後述。(伏線)
父の井伊直中が隠居後に生まれた14男であり、とても家督が回って来る見込みはなし。
今でも彦根城へ行くと、側に埋木舎という屋敷。ここで直弼は17歳から32歳までを過ごす。家督を継ぐ見込みがないからといって、放蕩三昧とかヤケになるということもなく、茶道や武術、和歌や禅に励む。
元々、真面目な性格だったということか。


大蒜と生姜を摺り下ろす。

ところが時代の流れが直弼を埋もれたままにはしておきませんでした。
家督を継いでいた兄が死亡。他の兄達は他家に養子に行っていたという事情から井伊家を継ぐことに。
彦根の殿様になったばかりか、激変する時代は更に直弼を大きな舞台へ。
嘉永六年(1853)にペリー来航。開国を迫られる。
老中首座、阿部正弘の死後、この国難とも言える事態に対処するために臨時職にして、大きな権力を持つ大老が置かれることとなり、井伊直弼が就任。


モロッコインゲンを適当な長さに切る。

直弼は元々、攘夷派。しかし欧米諸国との力の差を悟ると、開国に考えを変えたといいます。但し、彼等の技術等を吸収し、十分な力を付けたら再度の鎖国もありという大攘夷とでも言うべき考え。
現実を見据えた考えというべきでしょう。
しかし時の帝、孝明天皇は大の夷人嫌い。異国人が日本に上陸するなど、神州の穢れになるとして、絶対に開国など認めないと言う大御心。


米粉、摺り下ろした山芋、ターメリック大匙1を混ぜ合わせて、少しづつ水を加えて捏ねる。

止むを得ず、幕府は天皇の許しなしでの開国を決定。日米和親条約締結。
直弼は勅許なしでの条約調印には反対でしたが、米国のハリスと直接、交渉していた岩瀬忠震や井上清直は事態の収拾を図るために早期の調印を目指す立場。結果、勅許なしでの条約調印。
この結果を受けて、直弼は大老辞任の意向を示したが、周囲から慰留される。


適当な大きさに広げて皮を作っていく。

米国からの圧力と言う外患に加えて、この時期、内憂も。
将軍継嗣問題。
十三代将軍、徳川家定が病弱(頭が?)子もいないということから、早期に跡継ぎを決めねばならないという事情。
候補者は二人。紀州徳川家の慶福と一橋家の慶喜。
直弼が推す慶福が十四代将軍に決定し、名を家茂と改める。この問題では直弼は我意を通した?


茹でたジャガイモを潰す。

そして始まったのが安政の大獄。
反体制派の一斉取り締まり。
処罰対象は大名や公家から下級武士、町人にまで及ぶ。
先に名を挙げた岩瀬忠震も謹慎。直弼はここで仇を取った?
吉田松陰や橋本佐内といった人材も命を落とし、尊王攘夷派は大打撃。
将軍継嗣になれなかった一橋慶喜は謹慎。
この大獄よりも前ですが慶喜の父親、徳川斉昭も隠居させられていました。これらのことから、水戸徳川家の武士達の間に井伊直弼憎しの機運が高まっていく。


潰したジャガイモに大蒜と生姜、モロッコインゲン、ターメリック大匙半分、ガラムマサラ、塩、酢を混ぜる。

井伊家には赤色の軍装が許されていました。粛清の嵐の容赦なさから鬼と見做されて、井伊の赤鬼と直弼は呼ばれるように。
赤鬼討つべしという暗殺チームが水戸侍を中心に結成。首謀者は関鉄之助。(ここで鉄之助登場。伏線回収)
計画を練っていく。


皮に中身を詰めて閉じていく。

安政七年(1860)3月3日。これは旧暦ですから、現在の暦に直すと3月24日。
もう春先ですが、雪が降り積もったそうです。この日は桃の節句。
在府の大名は登城して、節句の祝いをするのが習わし。
井伊家の行列もすぐ目の前の桜田門から登城すべく、上屋敷を出る。


揚げて油を切る。

現在、憲政記念館がある辺りが井伊家の上屋敷。そこから皇居は数百メートル。
沿道には各大名家の行列を見物する人達。手には武鑑という大名家の旗印とか家紋を書いたガイドブック。
雪が積もった寒い日とはいえ、普段とそう変わらないのどかな日常は、一発の銃声で破られる。
関鉄之助が直弼が乗る駕籠に向けてピストルを撃つ。それを合図に二人の見届け人を含む18人が井伊家の行列を襲撃。
不運にも関が撃った弾は直弼の脚に命中。これにて動きを封じられる。
井伊直弼は居合の達人。自由に動けていたら、違った展開?
井伊家の武士達は雪で刀が濡れたら困るということから、柄袋を被せていました。そのためすぐに抜刀出来ず。応戦が遅れる。
やがて駕籠に次々と刀が突き立てられ、もはや虫の息の直弼は引きずり出されて、薩摩からの参加者、有村次左衛門によって首を打たれる。


サモ桜田門外の変

米粉で作った皮はもっちりとした弾力。中身もカレー味マッシュポテトにモロッコインゲンがよい歯応えを加える。
唐辛子のカプサイシンが代謝を向上。他のスパイスも腸内環境を整えてくれる。

現在、桜田門の向かい側には警視庁。これにも意味があります。
襲撃者達は桜田烈士などと呼ばれていますが、行ったことはテロ行為に他ならず、もう暴力で政治を変えるようなことは許すまじ、そうした動きをしっかりと取り締まろうという自戒を込めて、明治政府は此処に警視庁を置いたという経緯があります。
桜田門外の動画をどうぞ。↓


横浜の掃部山公園に井伊直弼の銅像。
横浜開港に貢献した恩人ということから、此処に銅像。掃部山という地名も井伊直弼の官職、掃部頭に因んだもの。
決して積極的な開国派とは言えない井伊直弼が開国の恩人扱いされていることを、本人はどう思っているだろう。と妄想しながらサモ桜田門外の変をご馳走様でした。

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