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のの廣瀬武夫

現在、居住している関東のド田舎ではヘッダー画像の植物を「ののひろ」と呼ぶが標準語では野蒜という。
そろそろ彼方此方に生えてきたので、幾らでも無料で入手可能。
ということで食べられる野草を料理しながら、日本初の軍神となった人物を妄想した記録。


材料

ののひろ(野蒜) 好きなだけ
味噌       大匙2
酢        大匙1
味醂       小匙1
和布       好きなだけ

江戸時代最後の年となった慶應四年(1868)に豊後国(大分県)竹田に誕生した廣瀬武夫。父は勤王の志士。
西南戦争で自宅が焼失したため、一家で飛騨高山(岐阜県)に転居。
明治十八年(1885)に江田島の海軍兵学校入学と同時に講道館で柔道を学ぶ。正に文武両道。
卒業後、遠洋航海や近海の測量等に従事。
静岡で有名な侠客である清水の次郎長に会った逸話。
乗艦していた者達50人程で次郎長に対面。
一同を睥睨した次郎長は
「こうして見ると、この中には男は一人もいねえな」
修羅場をくぐって来た次郎長には真面目な水兵には精悍さが足りないとでも思ったか。
立ち上がった武夫は
「そんなことはない。見てろ」
と言って拳を固めて自らの鳩尾を何度も連打。
これで次郎長に気に入られた。

根と青い部分を切り落とす。

柔道で鍛えた体は拳で叩いてもびくともせず、そんな裸体を武夫は写真に残しています。
昔のドラマ『坂の上の雲』では褌一丁で写真撮影。しかし実際はブリーフ一枚の写真が現存。
これは自らの祖母に送った写真。大事に育ててくれたお陰で立派な体に育ちましたという意味で撮影。
どことなく朴訥さを感じさせる逸話。

水から沸騰するまで茹でる。

これから先、露西亜が日本の仮想敵になると考えた武夫はロシア語を独習。それを買われて、ロシア留学を命じられる。
現地で交流したロシア人達にも武夫は気に入られる。
「日本の柔術とはどんなものか」
と問われて、
「お見せしよう。その椅子に座って下さい」
と言われた大男が座ろうとした時、一瞬の隙を突いて武夫はそのロシア人を投げ飛ばす。
力づくではなく、相手の虚を見て倒す。正に日本武術の精髄。
ボリスという若いロシア士官は
「タケニイサン」と呼んで武夫を慕った。
そしてアリアズナという女性との恋愛。


乾燥和布を水で戻す。

読み通りというべきか、日露関係は緊張。
武夫にも帰国命令。
ボリスは銅製のコップを贈った。
「不幸にも戦争になってもお互いに祖国のために力を尽くそう」と武夫とボリスは誓い合った。
アリアズナは「A」と刻まれた懐中時計を武夫に贈った。
自分のイニシャルであり、アモール(愛)という意味が込められていた。
武夫は漢詩を贈った。


水気を切った和布にののひろと調味料を混ぜる。

明治三十七年(1904)に始まった日露戦争。
ここで秋山真之は旅順港閉塞作戦を立案。
ロシアが陣地を構築している旅順港は狭いので、其処に老朽船をわざと沈めてロシア軍艦の出入りを防ごうということ。
この作戦は三度敢行。結果から言えば失敗。
二度目の作戦中のこと。
部下である杉野上等兵曹長が自爆用の船に残ったまま帰って来ないので、武夫は船に戻り、三度も船内を捜索。すでに船は沈没中。
止む無く捜索を断念、脱出用の舟に乗ろうとした所、ロシア側から飛んで来た砲弾が頭を直撃。享年35歳。


後はしっかりと混ぜる。

頭が吹き飛んだ武夫の遺体はロシアの陣地側に漂着。
ロシアは丁重に葬った。
戦死時、廣瀬武夫は少佐だったが特進により中佐に。結局は行方不明の杉野も兵曹長に特進。
更に『廣瀬中佐の歌』が唱歌となって小学校の教科書にも載った。

武夫が軍神とされたことに私は何となく違和感というか、如何にも日本的な軍神かもしれないと思ってしまう。
戦争で英雄とされるのは敵部隊を殲滅したとか、多くの敵を殺した人。廣瀬武夫はそうではない。
客観的に見れば閉塞作戦は失敗であり、探した杉野は見付からず、自身も戦死。軍や国に何の貢献もしていない。
成功した人よりも志半ばで散った人物の方が同情され、評価される。一種の判官贔屓ではないか。


のの廣瀬武夫

ののひろ(野蒜)の独特な臭いの元は硫化アリル。食欲増進効果あり。
ビタミンAやC、カルシウム、マグネシウム等も豊富。
合せた和布にもマグネシウムやヨウ素、食物繊維と栄養豊富。
味噌と酢は2対1の割合にすると食べやすい。
合せてすぐよりも一晩置くと味が馴染んでいい感じ。

東京の万世橋に高い台座に乗った廣瀬武夫の銅像が設置されたのは明治四十三年(1910)死後6年後のこと。
足元には杉野兵曹長の像。
昭和十年(1935)には故郷の竹田に廣瀬神社が創建。
軍神としての神格化がどんどんと進む。

しかし終戦後、昭和二十二年(1947)になると万世橋の銅像は戦意高揚に使われ、更には戦犯!?という扱いにまでされて東京都により撤去。
人間の評価とは勝手なもの。
さんざんに持ち上げておいて、時勢が変われば引きずり下ろす。
昭和三十年代には廣瀬中佐銅像を復活させようという運動があったそうですが有耶無耶に。

廣瀬武夫は頭が吹き飛んだので間違いなく死亡していますが、生死不明のまま戦死扱いになった杉野兵曹長には生存説。
しかし自分が軍神扱いされているので今更、生きていましたと言えずにひっそりと隠れるように人生をまっとうしたとか?
もし生存していたとしたら、そんな風に人の目を気にしたのも如何にも日本らしい。

自らの運命を受け入れて、すべきことを忠実に行った軍人を妄想しながらのの廣瀬武夫をご馳走様でした。

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