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帆立め島田魁

北海道から取り寄せた帆立貝柱がまだ残っている。どう料理しようか。炊き込みご飯を作るか。ということで帆立の炊き込み飯を作りながら、最後まで新選組屯所と新選組の魂を守ったと言える男を妄想した記録。


材料

帆立貝柱 好きなだけ
人参   1本
生姜   1欠け
昆布   5センチ位
バター  20グラム
醤油   大匙2
米    1・5合

文政十一年(1828)美濃国(岐阜県)の庄屋、近藤家の次男に生まれたのが後の島田魁。
名前の「魁」ですが、一般的に「かい」と読まれることが多いのですが、後年、「さきがけ」と読むように改めたという話もあります。
幼少の頃、永縄家に養子に行きましたが、その後、母の実家、川島家に預けられる。結構、複雑な育ち。これは父が木曽川の氾濫で御用材を流出させたことから自害したため。
大垣藩の島田家に剣術の腕を見込まれて養子入り。こうして島田魁となる。
江戸に剣術修行に出て心形刀流、坪内道場で稽古。ここで師範代をしていた永倉新八と知り合う。


人参を短冊切り。

後に新選組で再会するというより、恐らくは新八の誘いで加入したかと思われる島田ですが、新八よりも11歳上。土方歳三よりも7歳上、近藤勇とも6歳上と結構な年齢差。全体的に若者が多かった印象がある新選組ではおっさん隊士。
それでも池田屋事件の発端となった古高俊太郎の取り調べ(拷問?)を始め、新選組の主要な戦いや事件に関わっていく。
局中法度に違反した隊士の粛清等にも関わったと言われます。
永倉新八が二番組長を務めると、伍長に就任。旧知の新八を助けて活躍。
油小路の戦い後、生き残った御陵衛士が伏見で近藤勇を狙撃した時、その場に居合わせた島田は近藤が乗る馬の尻を思い切り叩いて、馬を走らせて近藤を無事に逃がす。

生姜を細切り。

島田魁は身長180センチ、体重は160キロあったと言われますので、正に力士並の巨体。実際に相撲が得意だったそうで、怪力の持主ということから、力さんと綽名されていました。
極度の甘党で、大量に砂糖を入れたお汁粉をよく作っていたそうですが、糸を引く程、どろどろに甘く、島田以外は誰も食べようとしなかったとか。
女を囲ったり、島原遊郭で派手に遊ぶ隊士も少なくない中、島田は酒も女も嗜まず、博打もせずと真面目一徹。


研いだ米の上に帆立、人参、生姜、昆布を乗せ、酒と醤油を投入。30分以上浸水させてから炊飯。

都でブイブイ言わせていた新選組も時勢が変わり、大政奉還、王政復古の大号令となると、一気に斜陽。
鳥羽伏見の戦いの際、塀を昇れずにいた新八に、既に塀上に居た島田は銃を差し出し、それに捕まった新八を引っ張り上げたという逸話。鎖帷子を着て鉢金を締めて、帯刀と武装した男を一人で引っ張り上げたというのだから、力さんの綽名は伊達ではない。


炊き上がった。

都を退去して江戸へ戻った新選組。島田の姿もその中に。
盟友の永倉新八が近藤勇と決別して去った後も、島田はそのまま残留。土方歳三の下で戦い続ける。
宇都宮、会津、そして箱館まで。
榎本武揚率いる旧幕府軍と合流した土方率いる新選組。五稜郭で新政府軍に抗戦。
島田が書き残した記録によると、隊士達が土方を慕う様子は赤子が母を慕うようだったとのこと。鬼の副長と呼ばれていた土方も、この頃は丸くなっていたか。


昆布を取り除いて、バターを混ぜ込む。

島田を始め、隊士達から慕われていた土方歳三が戦死。榎本武揚も降伏。これにより戊辰戦争終結。
旧幕府軍兵士は皆、武装解除して投降する中、島田のみは帯刀したまま堂々としていたといいます。
その後、名古屋に送られて謹慎生活。
謹慎が解かれた後は京都に向かう。島田にとっては新選組の一員として過ごした京都はやはり特別な地。
剣術道場を開くも、もはや剣の時代は過ぎたということか、まったく流行らず。レモネード屋を始めたこともありましたが、これもうまくいかず。超が付く甘党なので、甘すぎて一般受けしなかった?


混ぜて混ぜてバターを溶かす。

榎本武揚が京都に所用で来た時、旧交を温めたいから、会いに来てくれないかと使いを寄越したことがありましたが、
「用があるなら、そっちが来い」と拒絶。
旧幕府軍の総帥でありながらも降伏後は明治政府に出仕、出世の道を行く榎本を快く思っていなかったということでしょう。
榎本の方は、島田に何等かの援助をしようと思ったのかもしれません。
生活に困窮したこともあった島田ですが、榎本を始め、旧幕府の者を頼って職にありつこうとは決してしませんでした。


帆立め島田魁

バターと醤油はやはり黄金の組み合わせ。ご飯がお陰でしっとりして甘く、程よく醤油味がマイルドになる。味が沁み込んだ貝柱がほろほろと崩れて食べやすい。
人参と生姜も柔らかく仕上がった。
帆立からミネラルやタンパク質、人参からベータカロチン、生姜には各種ビタミンやカルシウムと栄養も文句なし。


明治十九年(1886)島田は西本願寺の警備員の仕事に就く。
西本願寺は一時、新選組が屯所としていた場所。そこを守る仕事を得た島田、感慨深かったのではないかと思います。
警備員の仕事にあること14年、明治三十三年(1900)、西本願寺で倒れて死去。享年は73歳。懐中には土方歳三の戒名を書いた紙。肌身離さず、持っていたようです。
新選組の屯所と魂をずっと守り続けた男、島田魁を妄想しながら、帆立め島田魁をご馳走様でした。

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