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立花宗茂ソ柚子塩炒め

ゲソと言えば烏賊ですが、夏に旬を迎える蛸のゲソを使った料理を作りながら、奇跡の復活を遂げた戦国大名を妄想した記録。

3月、福岡に久しぶりに帰った時、柳川を訪問したことを思い出す。
江戸時代を通じて柳川を治めた立花家の別邸が御花。

御花

永禄十年(1567)大友家の家臣、吉弘鎮里の長男として誕生した千熊丸が後に立花家藩祖となった立花宗茂。
彼は何度も改名しているのですが、ここでは便宜上、もっとも有名な宗茂の名前で統一。
父親もまた、後に高橋家の名跡を継いで高橋紹運と名乗る。


材料

蛸のゲソ  1パック (あらかじめ炙ってある)
ズッキーニ 半分
油揚げ   2枚
塩麹    大匙1
柚子胡椒  小匙半分

子供の頃から利発で礼儀正しい少年。肝も据わっていて、八歳の時、見世物を見物していると騒動。ついに刃傷沙汰。
若君に何かあっては大変と家臣達は帰るように勧めたが、
「我々には関係ない騒動。それなのにビクビクすることはない」と返答。
初陣では自ら敵将、堀江備前と組打ち。相撲が得意だったこともあり、敵を圧倒。家臣と共に討ち取る。この時、十四歳。


ズッキーニを短冊切り。

有望な跡取りと父も安堵していたが、思わぬ横槍。
どうしても宗茂を養子に欲しいと申し出てきたのが戸次鑑連こと立花道雪。↓

跡取りなのでそれは出来ないと断っても、
「我が戸次家も高橋家も共に大友家のために働く家。どちらの家を継いでも同じこと」と道雪は食い下がる。
ついに根負けした高橋紹運、大事な長男を養子へ。
「万一、道雪殿と高橋家が戦うようなことになったら、その時にはこの刀で我が首を取りに来い」
と餞別の刀と言葉を授けて、紹運は息子を送り出した。
宗茂は道雪の娘、誾千代と結婚。立花宗茂となる。


油揚げも短冊切り。

宗茂と誾千代の結婚について、疑問に思うことあり。
夫婦には子がなく、仲もよくなかったとも言われる。
元々、誾千代は父から城を譲られた女城督。婿だからとて宗茂に遜るつもりもなかった?というか立花家は大友家の支族、その名跡を継いだ自分と家臣である高橋家では釣り合わないと考えていたかもしれない。
昔、読んだ小説で面白い説。
そもそも誾千代は道雪の娘なのか?
母親についてはよくわからない。もしかしたら主である大友宗麟のお手付きの女性を道雪が貰い受け、生まれた宗麟の子を養育?
誾千代もそのことを知っていたので気位も高かった?
何しろ立花道雪は雷に打たれて下半身不随になったらしいですから、子を成すことが出来たのかということも疑問。


ズッキーニに軽く焼き目が付くまで炒める。

立花家や高橋家が仕えていた大友家は義鎮こと宗麟の代に最盛期。九州六ヵ国の守護職。ところが耳川の合戦で嶋津家に大敗。ここから衰運。
この頃、道雪、宗茂、紹運らは筑前(福岡県)に。
大友家の本拠、豊後(大分県)から離れた地にいるので、これを期に大友家を見限り、嶋津に付くとか独立するとかはしませんでした。
あくまでも武士としての節義を守り、大友家のために働く。
大友家自体が本国にまで攻め込まれて青息吐息。援軍など来る筈もない。それでも大友家への忠義を貫き、道雪は志半ばで無念の病死。
紹運は壮絶な討ち死に。
偉大な二人の父を失いながらも宗茂は孤軍奮闘。
時には降伏するフリをしながら嶋津を追撃したりと、駆け引きも用いつつ立花山城を拠点に筑前を守り抜く。


油揚げ投入。

思わぬ援軍で救われる。
主の宗麟自らが大坂に出向いて秀吉に援軍要請。
秀吉の九州征伐軍が上陸して、嶋津軍は南へ撤退。
秀吉の天下が確立すると、宗茂は大友家から独立した大名として扱われて、筑後柳川に十万石の所領。
武勇と忠義を秀吉から称えられて、
「東の勇者は本多忠勝。西の勇者は立花宗茂」と呼ばれた。
秀吉政権下では唐入り、一般的に言う朝鮮出兵にも参陣。
小西行長や加藤清正等、味方の危機を幾度も救った。


塩麹と柚子胡椒投入。

秀吉死後、関ヶ原では西軍として大津城攻めに加わる。その間に関ヶ原本戦は終了。
立花勢は負けていないのに敗軍。
九州に戻る船で思わぬ呉越同舟。
嶋津義弘。
実父、高橋紹運の仇である嶋津。ここで討ち取るべしと家臣達はいきり立つ。
「敗軍を討つは武家の誉にあらず」として宗茂はこれを拒否したばかりか、多くの家臣を失っていた義弘を護衛して九州に帰り着く。
これに恩義を感じた義弘は柳川に籠城した宗茂に援軍。
しかし援軍到着前に宗茂は降伏したので間に合わず。


蛸ゲソ投入。炒め過ぎると固くなるので最後。

領地没収された宗茂ですが、前田利長や加藤清正が仕えてくれないかとスカウト。しかし宗茂はすべて断り浪人。
家臣達は宗茂と共に浪々の身になったばかりか、自分達が働いて宗茂を養った。
降伏する時には領民達が反対。
家臣にも領民にも慕われていた。
筋を通した生き方を貫いていると、見ている人はよく見ているもので、家康の跡を継いだ二代将軍、秀忠のお伽衆にと推挙してくれたのは本多忠勝。↓

これにて再仕官が叶った。
敵対した徳川に仕えるのかと思うかもしれませんが、豊臣家への忠義は関ヶ原で果たしたと考えていたのではないか。家臣達にも武士らしい生活をさせたいと思ったのではないか。


立花宗茂ソ柚子塩炒め

いい烏賊ゲソが手に入らなかったので蛸のゲソを使ったのですが、正解。
程よい弾力が素晴らしい。加熱したズッキーニのシャクシャク感ともよく合う。
嵩増しの積もりで加えた油揚げが水分や油を吸ってくれて、よい味。
塩麹の甘いしょっぱさに混じる柚子胡椒のピリ辛。
タコのタウリンが食欲を増してくれる。

剣術はタイ捨流、弓術は日置流、茶道や蹴鞠にも通じて弁舌爽やかな宗茂は忽ちお気に入り。
ついに陸奥棚倉に一万石を与えられて大名復帰。

関東と大坂が手切れとなると、宗茂は大坂城に入るのではないかと家康は心配したが、秀忠旗下で大坂の陣に参戦。
もう徳川家に恩義を受けたので、それに報いるという心。
軍師的な役割を果たし、戦後、元和六年(1620)に筑後柳川十万石を与えられて、旧領復帰。
関ヶ原後、復帰した大名で旧領にほぼそのまま返り咲いたのは立花宗茂一人。
二人の父から薫陶を受けて、武士として節義を守り、筋を通す生き方を貫いた立花宗茂を妄想しながら、立花宗茂ソ柚子塩炒めをご馳走様でした。

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