#4 女子高生はどこだ?
原作が小説である登場人物達を今度は漫画として作画するにあたり、あやふやで不定形な存在だったわたしがあらゆるイメージが付加され消費しつくされてきた「女子高生」を描くことは、とても困難な作業だった。
フィクションとして割り切り大衆が希求するイメージの女子高生を描くと、当時女子高生だったわたしから強烈な猛反発と抗議が沸き起こった。
(本当のお前はどうだったっけ?)
(また自分の存在を無かったことにするのか?)
(今度は自分が身勝手なイメージを投影させて10代の子達を消費する側になるのか?)
かといって、当時周りに居たあの定型的クラスメイトを想起させるリアルな女子高生を描くと、疎外され孤独だった学校生活の記憶がぐらぐらと甦り、トラウマ的な苦しみから重たい筆が更に進まなくなってしまう
そうしてやはり、そこには女子高生だった当時の自分の姿は無い。
何故こんなにも「女子高生」と聞いて想起される像と「現実の自分」が乖離しているのだろう
虚構に寄っても現実に寄っても、女子高生を描くことはわたしに苦しみを伴わせた
何度も図像を現実の自分や周囲にいたクラスメイト達から引き離そうとしたが、虚像としてのちょうどいい着地点も全く分からなかった
わたしはここでも(それも今度は自らの手によって)己を幽霊に、透明な存在にしなければならないのだろうか?
LGCのコミカライズに際し、元々は女子高だった舞台設定を地方の共学校へ変更することを考えていた。
実際の舞台はカトリック系の女子高だが、わたしが体験的に知っている要素を持たせた方が描写に説得力が出せるのではないかと思ったからである。
しかし、原作者の由良さんからキャラクターイメージのヒントを貰いつネームを進めるにつれ、これは完全にわたしが体験したことの無い学校の世界のお話として、変に現実と摺り合わせず物語を描き切った方がいいと思い直した。由良さんが提示してくれた絆たちのヴィジュアルイメージは、程好く普遍的な学生感が保たれ、非現実的過ぎず、かといってリアルにも寄りすぎていない絶妙なバランスの造形がなされていた。そうして結局元の舞台設定を踏襲してネームを切った。
そして、それは間違っていなかった。
わたしにとって、「女子高生」とはまだ適切な距離感を持って鑑賞出来る対象でも、身勝手なイメージを盛り込んで空想の世界で遊ばせられる虚像でも、体現したかった理想を背負わせ昇華してもらう存在でもなく、他者の創造した物語の世界を借りてこちらの創造の縛りを作り、当時の空気感や文化風俗をなぞりながら半ノンフィクション的に、やっと描くことが出来る存在だった。「女子高生」像を造形するという最大の関門は原作者の力を借り、どうにか突破することが出来た。
そして創作上のサンプルとしても掬いあげられなかった当時グニャグニャの半透明な女子高生だったわたしは、過去の記憶の中で今も寄る辺なく立ちすくんでいる
続く
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