#5 サンプリング

女子高生に限らず、「女性(女子含む)」をモチーフとして描く際に、現実に女として存在している自分の有り様を無視することは出来ない。

架空の存在として扱うにしても、そのキャラクターが「女性」であり「女であること」にアイデンティティーの比重が少しでも傾く時、どうしても身近な女のサンプルとして自分と向き合わざるを得ない。

女子高生の頃以上に、今現在のわたしは「女」や「男」といった言葉やイメージが表す表象のどこにも己が存在していないと感じている。
アメーバから輪郭のあるもっと強固な固体になるかどころか、年齢を重ねるほどますますジェンダーが不明瞭になり、どうしようもなくて未確定に留めて生きている。
そんな風に性別にアイデンティティーを傾けられないまま生きているわたしが最も描き難いものが「女性」なのかもしれない。


イメージとして想起される女性(長い髪、化粧した顔、微笑み、出っ張った胸、淑やかな態度、スカート、かかとの高い靴、不自然な女言葉)に纏わるものを、わたしは殆ど持っていないかもしくは意図的に拒絶するようになった。これらのものが「女性」という性別に強力に紐づけられていなければ、まだ選択肢として選び得たかもしれない。

わたしは「有る」と言うことが憚れるほど、胸部が無い。よって、全く必要が無いのでブラジャー等を殆どしない。

しかし現実ではバストの有る無しに関わらず、成人した女性は胸部にブラジャーをあてがうものであり、胸部を保護、補強する必要が無くても胸部専用の下着を着るものだとする強固な風潮が有る(ブラジャーという言葉すら打つのに気が重くなる程そもそも言葉の響きも好きではない。ブラですらまだかなり嫌な感じがする)

わたしは胸部が補強されたキャミソールですら、締め付けから酷い肩凝りと頭痛と息苦しさを覚えるので自分の心身の健康のために出来るだけ身に付けない(わたしの知る限りブラジャー着用を頑として拒否していた時期が有った著名人は黒柳徹子さんと角野栄子さんくらいしか知らない)

そしてブラジャーをしない女は化粧をしない女以上に、社会性の無い未成熟な人間としての烙印を押されがちである。

女性の中でも未だ異端な存在だと思う。

子供の頃からテレビドラマ等を観る度にぼんやりと思っていた。規格化された女にも男にも振り切れない、只そのままで存在するしか無い故に不定形な人達は、あらゆる創作物、フィクション、ドラマの中の誰に自分の姿を重ね合わせているのだろう。

個性というものが当たり前のように、女性性と男性性の枠からはみ出さない範囲で作られ、文章の上では不自然な女言葉をあてがわれ、当たり前のように性愛ありきの恋愛関係が描かれ、ほんの数十年前のことなのに誰も疑問を持たなかったのが信じられないくらい野蛮だ。

これを書きながらまた、わたし自身の身体がユラユラと空気に溶け出していくような気持ちになっている。

LGCの登場人物達を描きながら、思春期から一貫してジェンダーの不明瞭な人間が10代の女の子達を(原作が存在するにしても)自分が充分に描き得るのだろうかといつもグルグル煩悶していた。それでも作品集を止して漫画化しようと思ったのは、わたし自身が自分の中でも何だか不明瞭で判然としない、あの思春期の1時代を自分史の中でうやむやにしたままでは、腰から下が視界から消えたまま覚束無い足取りで人生を続行していかなくてはならないような重苦しい薄暗い不安を、ずっと抱えていたからだった。

続く


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