#7 精神と身体

肉感的な女性


それは女性のモチーフの中でも、美化された女子高生像と同じくらい描き難いものだった。

丸みのある自分の身体をしげしげと見るたびに、じぶんが否が応でも女であるという敗北感と屈辱を嫌というほど味わって哀しくなった。

自分で選んだ訳でもない性によって、否応なしに自分の体の特徴や外形が経年によって決められていくなんてどうしてこんなグロテスクな現象がまかり通るのだろう。

もともとうっすらと感じていた自分の体の宿命に対する憎悪は、生きている価値の無い人間は痩せていなければならないという歪んだ強迫観念によってさらに苛烈に燃え上がった。

男性になりたいわけでもないが、女性であることに納得も出来ない。
女性であることを認めることは自分の意思が無視されている現実を受け入れることだった。

「女の身体」は、わたしには受け入れがたい宿命だった。

しかし、この性を受け入れなければ、わたしは自分で自分の生をも拒絶することになってしまう

物心付いた時から低く鳴り響いていた、「わたしがわたしに対して感じる不快感はわたしを消滅させることでしか解決出来ないのではないか?」という不安は、より一層濃くなった

心は加速をつけて死に傾いていく


そこに転機が訪れた


今までメディアでは見たこともなかった(しかし確かにこの世界に今までもずっと存在していたが透明化されていた)強い自我と一言で表現しづらい個性を持った複雑怪奇な女の子達が、インターネット上に出没し始めた。

新しい世代のアイコンとして耳目を集め始めた彼女たちはこれまで女性に嵌め込まれてきた、「一方的に見出だされたイノセントを尊ばれやがてそれを喪い幻滅されるまでを消費期限として設定され、脅威にならない程度にトゲを抜かれた可愛らしさしか持たせてもらえない」偶像に対してNOを突き立てた

ナルシストと云われることに怯えず、病的と言われようが自分の美意識から造り出された理想像になりふり構わずすがり付く

自分を偽らず生きれば生きるほど狂おしく、痛々しいその姿と精神性にわたしはうち震えた。

彼女たちの中には痩せた人もいればずっとふくよかで女らしい体型の人達も沢山いて、わたしは初めて女らしい身体のままで「女」という枠を壊して存在している人がいることを知った。

その時から、わたしは肉感的な女性の身体を、少しずつ、嫌悪感無く描けるようになった。


モチーフを変えてからの絵は良い評価を貰い、わたしは自身の精神と身体が初めて統合されたのではないかという喜びを感じた。

しかし、それでも摂食障害の方はちっとも回復する兆しを見せなかった。

20代後半で上京し、苦しいばかりの実家から這々の体で逃れて、やっと自分自身を否定すること無く女性を描けると思っていた安堵感は日が経つ毎に薄れ、わたしは再び肉感的な女性を描くことにも、やっとの思いで肯定してきた自分の女性性にも、また違和感を感じるようになってしまった。


この頃から「自己肯定」という言葉が生きているだけで心身を削られていくこの苛酷な世界をサブァイヴしていくための武器となるキーワードとして叫ばれ始めていた。

現実の自分の身体を否定していくところから始まるわたしの精神は、容易にその言葉を飲み込むことが出来なかった。


ストイックに自分の理想美を追究する道はどうしても健康を損なわせる方法でしか達成出来ず、従来の美の範疇から外れてきた個性に代替不可能な美しさを見出だそうという、女性の美しさに対する世の価値観の変化とも相まり、「自己肯定」という言葉が叫ばれれば叫ばれるほど、自分の性や身体を自然に受け入れ肯定し生きている女性達、ひいては現実の自分自身を否定して生きているような罪悪感を覚えるようになってしまった。


続く


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