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ヒトオオカミ

ピーッピーッ
煩わしい。

私は音が嫌いだ。
夏の雨上がり、朝の搬入だろうか。大きなトラックが駐車している音が聞こえる。気にしない人間にとっては耳に入らない音かもしれない。

2000年6月。
「おぎゃあぎゃあ」
「元気な人間の赤ちゃんですね」
「ありがとうございます」
私は生まれた時にこんな会話を聞いただろう。良く泣き声を出す子供だったらしい。そこから早20年以上の月日がたち、姿かたちは大人になったなと自分でも思う。
私は高校生までは、本当にコミュニティに適応しないヒトだったし、今でも人間のことが嫌いだ(今思えばなぜ人間嫌いになったのか分からないが、気づけば私の記憶アルバムの登場人物は数人の友達と両親くらいなものである)親に育てられ、きっとその数人の友達も共に育ってくれた、或いは、もはや私を育ててくれたなと思っている。

小学生の頃だっただろうか。
ちょうどその当時流行っていたドキュメンタリー番組をやった次の日だった。そのドキュメンタリーを見た数少ない友達の発言が頭に残っている。
「基本的に狼に育てられたヒトは人間界に馴染めないらしい」
幼い私には衝撃的だった。今では当たり前の話と認識しているが、同じ人でも育つ環境で180度変わってしまうのだと言うことが信じられなかった。

やはり育つ環境は大事なのだ。これは人間界の中だけでも言えることで、愛情を込められ育てられた人は優しいがいざという時に少しワガママだったり、幼少期我慢させられた人は大人になってから自分の意見がいえなかったり。人間それぞれ固有の悩みや個性を持ち、生きているのである。

私はと言えば、確かに先に述べたように人間嫌いだったものの、父は一般企業で一応役職は持っていたし、母は専業主婦だったものの、その母がよく会いに行く祖父は公務員でかなり上の方まで昇りつめた人らしく、かなり恵まれていたと感謝している。

ただ本当にいつからだろうか。私が人間嫌いになってしまったのは。

恵まれた環境で育ち、所謂エスカレーター式の私立学校に入学させてもらった。思い当たる節と言えば、小学校6年間丸ごといじめられたことが挙げられるが、私は生まれつきかなり強気な人間だったので特に気に止めず、ハブられたなら先生に構ってもらえばいいやーくらいだった。

確かにその時周りのヒトは嫌いであったが、少し傷ついたかと聞いてくる心には嘘をつき続ければ、いつかそれは心から聞かれることはなくなるのである。
心にオオカミ少年をしていればいいのだ。

そうやって小学校6年間を過ごし、エスカレーター式なものだからそのままいじめをするヒトは中学校にいたが、変わらず外部入学の子と関わればいいやと過ごしていた。

そうして周りの人間に支えられながら育ち、どこか、過去にいじめてきたヒトをバカにしていたのかもしれない。強気が祟り、そいつらを不必要な存在だなとまで思っていた。
不必要なもの、不必要なヒトは避け、それ以外の人間には好かれようと勝手に心の中で分け、神経質になっていたのだろう。
いつしか人間の感情、考えてること、そして周りの声。全て音として聴こえてくるようになった。感情や考えていることが音で聴こえるというのは比喩というより、脳内音声というもので、この人はきっとこうやって言うだろう、というのを相手の声色を想像し音声を脳内で再生してしまうのである。

今でも自分に関係の無い音、いきなり聞こえてくる音、人間の声、全てが嫌いなままである。人間が嫌いで音が嫌いなのだ。

オオカミに育てられたヒトは人間になれない。

ヒトに育てられたヒトは人間になれるのだろうか。

ヒトオオカミになるのだ。嘘をつき続けて。


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