【ネタバレ注意】考察を無効化する『劇場版おっさんずラブ』感想 その2

公開初日に感想その1を書いた。今日は2回目の感想。
ちなみに現時点で6DEADほど済ませました。まだだ。まだ終わらんよ。

もともとこのnoteを書きはじめたのは、ドラマ版を見て「あれ?」と謎の残るシーンがほんの少しあって、それについていろいろ推察したことを書きとめてみようと思ったことがきっかけだった。一つ気になるとあれもこれも、と、重箱の隅をつつくように隙を(なかば無理やり)見つけては、ああだこうだと好き勝手書き連ねてきた。

しかし、である。
劇場版では、そんなことをする気がみじんも沸き起こってこない。
というか、やってたらきりがない。だって、隙だらけなんだもん。

このお話には、サウナとか爆発とかエンタメ要素は息継ぎするヒマもないほどびっちり詰まっているけれど、肝心の春田と牧に関するエピソードは気持ちよいほどにすっ飛ばされまくっている。公開までとってもとっても楽しみにしていた春田家でのシーンも本当に少ないし、婚約指輪を渡した時、結婚指輪を買ったとき、もしかしたら新居探しもしたかもしれない、まだまだ数え上げればきりがないほど、描かれていないエピソードが山のようにある。

だけど不思議なことに、見終わったあとに物足りなさは感じなかった。それどころか心はこの上ないほど満たされていて、2時間スクリーンの前に座っているだけでこんなに多幸感を味わえることもそうそうないよな、という気持ちにすらなる。

きっと、飛ばされたエピソードがすべて描かれたものを見るよりも、何倍にもその多幸感は膨れ上がっている。
エピソードの抜けは、隙じゃなく、余白だからだ。
その余白に、私たちの想像力が広がっていく。
大きな器に入れるほどパンが膨らむように、用意された余白に、見た人それぞれの春田と牧の物語が無限につづられていく。

この映画で『おっさんずラブ』は完結なのだという。
寂しいと思う気持ちがないわけではないが(なんなら公開初日からすでにロス気味だった)、この「完結」の意味を今はかみしめたいと思う。

初日の舞台挨拶で田中圭さんが言っていた。
「今日からこの作品はぼくたちの手を離れて、みなさんのものになります」

これは、劇場でたくさん見て、宣伝して、大ヒットさせてね、という意味ももちろんあるだろう。だけどそれ以上に、この作品に込められた深い思いが伝わってくる。

彼らが魂を込めて、ウソなく本気で作り上げた『おっさんずラブ』という世界が、見た人の心の中でいつまでも続くように、春田や牧たちがずっと私たちの中で幸せをつむいでいけるように、あのラストシーンの青空のような余白を残して、物語を私たちに託してくれたのだ。

だから私は想像の翼を広げる。考察なんて野暮なことはしない。

春田や牧たちが見せなかった数々のシーンに思いをはせながら、見た人それぞれがそこに自分の人生をも重ね、感じたことを受け取って、ひとつの「完結」からそれぞれの明日を生きていく。続編は、私たちの人生だ。


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