ベジタリアン/ヴィーガンを辞めた話

3年前に動物愛護から始めたベジタリアン/ヴィーガンを辞めた。
このベジ生活を数年始めていくうちに世の中のベジタリアンに対する見方や流行り、自分の中での考えは色々変わっていくことはあったんだけど、お肉やお魚は3年前からほとんど自分の選択で摂取することはなかった。
だけどこの間、生理不順を理由にお魚→お肉をついに自分で調理して食べた。
翌日今年初めて生理が来た。酷い時は8ヶ月くらい来ない時期があった。(ベジ生活が原因かは不明)

今では食べたい時は肉魚、何でも食べるようになった。
禁止としていた、正義や平和と真逆の食べ物を摂取した事に「やっちまった感」はあったけどいずれはベジタリアンを辞めようと思っていたから案外ケロッと美味しく頂いた。

愛のあるライフスタイルと思っていたベジタリアンも、それに反するものに対して嫌悪感を抱いたり、肉食の人や動物好きと公言しているのに、ベジタリアンじゃない人を軽蔑したりしていた時期が正直あった。
正しいとか正しくないとかで食事したり、その人の事情を何も知らないのに、偉そうにジャッジしている自分が嫌いになった。
もはや動物の為というよりも自己防衛の方が勝っていたと思う。

食事は共有し易い身近なトピックではあるけど、同時にとてもプライベートなこと。
どんなに菜食で健康的に、必要な栄養素が全て取れると言われても、人によって体は本当に違くて、必要なものも人によって違う。
味の好みも違うし、本当に元からお肉の味が好きで辞められない人もいる。
畜産肉を食べると波動が下がるとか言っていたけど、毒だと思って食べるから毒になると思う。
たとえ倫理的とは言い難い方法で命が犠牲になった食べ物でも、そこに含まれたエネルギーや愛を無視することは、実際に目で見て体験していない自分はできないことだと実感した。

私はもう少し工夫すれば菜食でも心身ともにもっとハッピーに、健康的に生活できたかもしれないし、自分のやり方で足りない部分がいっぱいあったと思う。
それでもそこに対する自分の余裕や力量に限界を感じた。
そしてそこを極めるほどのヴィーガニズムに対する情熱が自分にないことも悟った。
もしまた一定期間動物を搾取しない生活をしても、「I am vegetarian」みたいにbe動詞で自分とベジタリアンはくっつけないと思う。

もちろん地球や動物、健康面において菜食はメリットが沢山あるし、オススメだし、ヴィーガン企業や飲食店はすっごく応援したい。
ヴィーガンである、なしに関わらず、食事ができるまでの過程や、畜産業、環境問題については地球に住むみんなが興味を持って考える方が良いとは思う。
食物連鎖は地球上で自然な事だし、人間が動物を、動物が動物を摂取し合うのは悪ではない。
ただそこに至るまでの過程をお金払って他人に任せて、過程を知りたくない、グロいのは苦手だからと言いながら、何も考えないで美味しい部分だけを得るのは違和感を感じる。

ベジタリアン生活で良かったのはそういうエシカルな生活をすることの良さを知ったし、植物性の食材だけの可能性や選択肢の多さ、自分の知らなかった世界を知れた。
食べ物じゃなくて競馬や動物園、エンタメで使われる動物、人間のファッション道具として犠牲になる動物、ペットとしての動物の在り方…沢山いろんなことに興味を持って考えた!
ヴィーガニズムはフェミニズムやヒューマニズムともリンクするし、愛のある選択肢であると今も変わらず思う。

実際に一定期間ベジタリアンになった経験が間違っていると思わないし、自分自身からコミットしたことにとっても意味があったと思うし、世界が広がった。

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