言葉がわたしの解像度をあげてくれる

気づいたら言葉を紡ぐことが好きになっていた。

きっときっかけは中学の時。
高校入試の勉強をしていたわたしは、高校入試の過去問を塾で解いたときに国語で満点を取った。当時わたしが住んでいた地区の高校入試は、小説や説明文の問題と作文で国語の試験が構成されていた。満点なんてそんなに珍しいことではないと思っていたけれども、作文まで満点であることは非常に珍しかったらしく、塾の先生にいたく褒められた。

思えば大学も小論文で入学していた。
文章がわたしの人生を切り拓いてくれているようなものだった。

 

そこから約10年。
気づいたら文章を書くことが仕事になっていた。

 

ライターをしているとよく聞かれることがある。
「文章を書くのが好きなのか?」
「なぜそんなに文章を書くのが好きなのか?」と。

答えはきっと「Yes」なのだろう。仕事でライティングをしている合間に、息抜きとしてnoteで文章を書いていたりする。文章を書くのが苦手な人からすれば、鬼畜の沙汰だと思われてしまうかもしれない。

写真、イラスト…。
他にもわたしが見たことや感じたこと、思ったことを表現する手段はたくさん持っている。それでもやっぱり文章でそのすべてを表現しているときが、一番、肺の奥深くまで新鮮な空気が入ってきているかのように、のびのびとしている気がする。

それでもなぜ文章を書くことが好きなのか、その理由はあまり考えたことがなかった。

 

きっとライターになった2019年の4月から2020年の3月までの1年間で書いた文字数は、100万文字をゆうにこえていると思う。それだけ愚直にたくさんの言葉をつづってきて、一つだけ感じたことがある。

それは、言葉が「わたし」という存在の解像度を高くしてくれるということ。

いろいろな言葉を知るたびに、いろいろな表現を知るたびに、ドット絵が次第に細かな粒度の絵になっていくような、モザイクがかかった写真のモザイクが晴れていくような感覚がしていた。

言葉がだんだんと、わたしの手足の神経とつながって、徐々に自由に体が動かせるようになる感覚に近いかもしれない。

「わたし」という輪郭を持たない曖昧な存在に対して、言葉が輪郭を作ってくれる。言葉がわたしをわたしたらしめてくれる。新しい言葉を覚えるたびに、新しい表現が使えるようになるたびに、そんな不思議な高揚感を感じていた。

 

もしかしたら、文章を書くことが苦手な人は、自己表現の手段が文章でないだけかもしれない。写真なら、イラストなら、デザインなら、自分の思っていることが自分の手足のように自由に表現できるのであれば、きっと表現のツールが文章でないだけなんだと思う。

わたしはたまたま文章と相性が良かった。ただそれだけのことなんだろう。

 

これからもどんどん、言葉の引き出しを、表現の引き出しを増やしていこう。そしてその引き出しが錆びついてしまわないように、その言葉たちをたくさん使っていこう。

 

「なぜそんなに文章を書くことが好きなのか?」
この問いに、次からわたしは自信をもって答えることができる。

言葉がわたしの解像度をあげてくれるからだ、と。

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