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相手の気持ち(自分語り)

人は、みんな相手の気持ちを自分の範囲内で考えている。
人の気持ちを考えない人なんていないと私は思ってる。

ただ、考えられる範囲というのは、自分の経験からに限られてしまう。
さらに、辛い経験や苦しい経験があると、ここでまた真っ直ぐに捉えられるか、捻じ曲がって捉えてしまうか、感情だけに頼ってしまうか、色々と分かれることになる。

どんな人でも、やっぱり「感情」が優位になる。
私も感情が優位になる。

でも、感情が優位になってしまうことは自分で気づくようにしている。
一旦、立ち止まって「本当に?」「自分が感じていることは自分だけが感じていることであって、意図は違うかもしれない」と客観的に捉えるようにしている。

それでも、難しい場合もある。
でも、うまくいく時もある。

感情と理性は別物。

「悲しいけど、きっとこうだよね」と別々に捉えることができる。
「これは確かにやり過ぎな面もあるけど、全員を想ってのことだよね」と捉えることができる。

私は昔から「いじめ」ということにどうも縁がある。

幼稚園の時は不潔、汚い。
小学校の時も不潔、汚い、ブス、巨人、くろんぼ。
中学校に入ると、それらはなくなったが他の人がいじめられていて、私はその子のそばにいるようにした。
そうしたら、標的が私になり、私がいじめられるようになった。

高校時代も同じ。
いじめられている子がいたから、私はいじめている子たちが許せなくて、みてみぬふりをする自分も嫌、事勿れで何もしようとしない人たちの仲間になることも嫌だった。

頭の悪い私は、いじめられている側につくことで、少しでもいじめがなくなれば、いじめられてる子が笑顔になってくれればそれで十分だと思った。

結局、私はひとりぼっちになり、いじめの標的とされた。
もともといじめられていた子は、いじめ側グループにいって楽しそうにしていた。

「良かった。自分の居場所が戻ったんだね」
私はそう思った。

社会人になると、今度は「常識」というのを知らず、「建前」ということも知らず、思ったことをハッキリと上司であれ誰であれ言っていた。
結局また省かれる。

私は手汗や足汗がひどいタイプ。
私が触ったものはどうしてもベタベタしてしまう。
頻繁に手を洗うようにしているけれど、それでもやっぱり手汗がひどい。
夏になれば、足が臭い。
水虫ではないけれど、汗で靴が蒸れて臭くなる。

そうすると「うわ〜ベタベタする!きたな〜い!」「ちょっとこの足跡誰!?掃除してよ!汚い!」「なんか靴箱が臭いんだけど!?誰の靴!?」など言われる。

仕事でわからないことを聞けば「そんなこともわからないの!?」「だから〜!」「もう自分で考えて!」など言われてしまう。

はい、社会不適合者なのかもしれない。

でも、そうとは限らない。

職場によっては、私を評価してくれるところもあった。
パートという身分で正社員を差し置いて、責任者になることもあった。
いくつかの店舗が展開されている会社で、すべての店舗の店長が私を知っているほどだった。

社長とも気軽に話せる、人事とも気軽に話せる。
時給は常にトップだった。

いじめられる会社以外では、私は早いうちから、だいたいは「教育係り」に抜擢される。

会社によっての扱いの差が激しい。

そんな中で、少しずつ私は社会というもの、人間というものを学んできた。

どうやら私は今の町内では一部の人からは受け入れられない人間のようだ。
なぁなぁで今まで通りの活動をしていかなければ、一部の人は不満に思うらしい。

匿名の紙で不満をポスト投函し、回覧で他の人間が便乗する。

私は思う。
そういった行動は何も思っていない人も巻き込んでいることになるんだよと。

つまり、匿名ということは誰かわからないのであるから、その町内全員の言葉になってしまうということ。

とても無責任だなと思ってしまう。

きっと、不満を持った人は、傷ついたのかもしれない。
他の人を想ってのことだったのかもしれない。

でも、それって本当にそれでいいのかな?
不満を持った人は、他の人の気持ちを考えての行動なんだよね。
本当に他の人全員が、あなたと同じ気持ちだったのかな?

少なくとも私が知っている人の中では違ったよ。

人の気持ちって、その人本人にしかわからないこと。
「わかって欲しい」と思うのは自然なこと。

でも、他人が他人の気持ちをわかることはできない。

「わかろうとすること」
「察すること」
「予想すること」

これはできる。
でも、その人の本当の気持ちというのは、本人にしかわからないことだと私は思う。

どんなに辛く苦しい状況に置かれている人のことであっても、どんなに苦しみを訴えてきたとしても、わかろうとすることはできるけれど、本当の意味ではわからない。

なぜなら、相手は自分ではないから。

自分の思うことがすべて事実であると錯覚しないことが大切だと私は常々思う。

そして、自分の正義は、時に人を傷つけ、悲しみに突き落とすことを肝に銘じたい。

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