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墜ちた男 第3話

『あの、まだ帰れないんですか?』
 繰り返される質問の一つ一つに律儀に答えたあと、槙はそう訊ね返した。口調こそ遠慮がちだが、ひそめた眉は不満を物語っていた。
『事情聴取って、けっこう面倒なんですね。こんなことなら名乗り出なきゃよかった』
 まとめ髪の毛先を弄び、溜め息をつく。丸くて大きな両目のせいか、それとも卵を思わせる輪郭のせいか、槙は実年齢より五歳は若く見えた。
 彼女が久保塚と結婚したのは、事件からちょうど二年前の夏だった。二人は勤務先の会社で知り合い、交際から結婚まで半年とかからなかったという。しかし、結婚後はしだいに言い争いが増え、一年ほどで離婚。旧姓に戻った槙は資格を取って転職し、賃貸マンションで暮らしはじめた。
 久保塚から連絡があったのはその半年後、つまりは事件の半年前のことだった。
『もう一度やり直さないか、って言うんですよ。でも私は全然そんな気なくて』
 槙はきっぱり断ったが、その後も連絡はたびたびあった。しばらくは無視してやり過ごしたものの、あまりにしつこいのでとうとう着信拒否にしたという。
『これで終わったって、そのときはすっきりしたんです。そしたら今度は、会社の近くで待ち伏せされて』
 槙が勤務先の門を出たとたん、久保塚は走り寄ってきて復縁を求めた。槙が文句を言うといったんは引き下がったが、一か月ほど経つとまた同じ場所に現れるようになった。とはいえ、脅すわけでも暴力を振るうわけでもないため、警察に相談するのはためらったそうだ。
 その後も久保塚はときおり姿を見せ、事件当日にはとうとう、槙の住むマンションにまでやってきた。同じマンションの住人によれば、見知らぬ大柄な男が午前七時四十五分ごろにエントランスをうろついていたという。それが久保塚本人であることは、エントランスに据えつけられた防犯カメラの映像からも確認済みだった。人相だけでなく、服装も死体発見時のものと一致していた。
『私は七時半ちょうどに、車で出勤したんです。あと少し遅かったら、鉢合わせしてたかもしれません』
 槙は安心とも不安ともつかない、複雑な表情を浮かべた。その朝二人が顔を合わせていたらどうなったかと想像したのだろう。
 槙のマンションをあとにしてからの久保塚の足取りは不明だった。元妻の帰宅を狙い、どこかで待ち伏せしていた可能性もある。しかし槙自身は、その日は久保塚に会わなかったと断言した。
『本当です。信じてもらえないかもしれませんけど』
 睨むようにこちらを見据える瞳は、さざなみのごとく小刻みに揺れていた。

「なるほど、彼女には動機があったわけだ」
 ビールのグラスを手に取り、藍沢は微笑む。美味しそうに喉を鳴らして飲むと、再び箸を手にした。
「ああ。久保塚の行動は、要するにストーキングだからな」
 春名はテーブルの上の手を組み替えて言った。久保塚の想いは一方的で、槙にとっては迷惑でしかなかった。実際、彼女は勤務先の同僚にも、『別れた夫がしつこく迫ってきて困る』とこぼしている。
「槙が身元確認に協力したのは確かだが、だからって犯人じゃないとはいえないだろう? もしかしたら、容疑をかわすためにあえて名乗り出たのかもしれない」
 捜査に協力的なその態度こそが工作の一部でないとはいいきれないのだ。
「そうだね」炒め物をつまみ、藍沢がうなずく。「本当は事件の夜にも、どこかで久保塚と出くわしたのかもしれない。激しく言い争ってるうちに、つい手が出て……ってこともありえる」
「そういうことだ」
 女の力でも思いきり突き飛ばせば、相手を転倒させて頭に傷を負わせることは可能だ。たとえ、故意ではなかったとしても。
「しかも、槙は死体発見日の午前五時すぎに、現場の歩道を通ってるんだ」
 その姿は歩道東端の防犯カメラに、往路と復路の計二回捉えられていた。つまり、東側から歩道に入ったあと、西端まで行かずに引き返したことになる。最初にカメラの前を過ぎたのが五時二分、二回目が同五分。行き帰りとも、通ったのは北側の歩道だった。
「本人の話では、『日課のランニング』ってことだったが……」
 タイミングがタイミングだからな、と春名は顔をしかめる。カメラの前を走りすぎる槙はピンクとグレーのウェアを着ていて、少なくともその瞬間はランニングをしているように見えたのだが。
「よりによって、死体発見の三十分前に通ったのか。そのときにもう、死体があった可能性は?」
 藍沢の問いに、「さあな」と春名は首を傾げる。
「そこは自分で考えてくれ。ただ、仮にあったとしても、槙の通った側からは見えなかっただろう」
 久保塚が倒れていた路肩と槙が通った歩道は、同じ北側だった。槙は死体のすぐ脇を通過したことになるが、すでに話したとおり、歩道と車道の境には背の高い雑草が繁っていた。
「槙本人も、『死体には気づかなかった』と言ってる。俺もそっち側の歩道に立ってみたが、草が目隠しになって路肩は全然見えなかった」
「もし槙が犯人なら、死体があることを知ってて嘘をついたことになるけどね」藍沢は飴色の玉ねぎを口に運びながら言う。「どっちにしろ死んだのは前日の夜だから、ランニングついでに殺したってことはないか」
「なにかしらの細工はできたかもしれないけどな」
 春名は言い添え、自分も箸を手に取った。半分ほどに減った炒め物をつまみ、黙々と咀嚼する。細工の例として、死体の姿勢を変えたり、位置を少しずらしたりすることは可能だっただろう。三分で戻るには、手早くすませる必要があるが。
「前日のアリバイは?」
 吸い物の碗を手に、藍沢が訊ねた。心持ち前に傾いだ姿勢は、気乗りしてきた証拠だ。春名は箸を置いて話を続けた。
「さっきも言ったが、槙は朝七時半に車でマンションを出てる。久保塚と入れ違う形でな。そのあと午後五時半までは勤務先の会社にいて、退勤後はそのまま同僚と町内の店で食事をしてる。八時五十分にその店を出てからは、次の日ランニングに出るまでずっと一人だった」
 つまり槙には、事件当日の午後八時五十分から翌朝五時すぎまでのアリバイがないことになる。
「死亡推定時刻は午後七時から十時だったよね」藍沢は言い、静かに吸い物をすすった。「店を出てから現場に向かっても、遅くはないか」
「多少あわただしくはあるけどな」
 春名は同意し、猪口の中身を飲み干す。槙が食事をした店と現場とは、二キロと離れていなかった。槙は酒を飲まず自分の車で帰ったというから、犯行に使える時間は最大で一時間強あったことになる。
「動機はある。土地勘もある。おまけにアリバイはない」藍沢は右手の指を順に折ってみせた。「疑われるのも無理ないね。でも、彼女で決まりってわけじゃないんだろ?」
「ああ」
 容疑者が槙だけなら、話は簡単だった。だがこの事件には、彼女に負けず劣らず疑わしい人物がもう一人いたのだ。
「二人目は高尾たかお暁斗あきと、二十九歳」
 春名の脳裏を、小綺麗な服に身を包んだ男の姿がよぎった。彼は死体発見現場からおよそ百メートル西に住む、久保塚の「顧客」だった。
【第4話に続く】

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