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10年目の3.11

東日本大震災から今日で10年。あの日を境に日本中で様々なことが変わった。自分がいる新潟は直接の被災はしていないけど影響がなかったわけではないという微妙な位置で、被災者として直接語ることはおこがましいけれど、かといって何も思うことがなかったかというと当然そうでもない。自分は震災全体を語ることはできないし、被災地や被災者を代弁することもできないけれど、自分の目に見えた景色を少し書いてみたいと思う。

あの時、3月下旬になってようやく書き始めたブログは今も書きかけで下書きのままだ。当時は震災が目の前に近すぎて、地震に津波に原発に、次々流れてくる情報の濁流を焦点も合わないままに眺め、少し手を突っ込んでその勢いに流されたりしながら、まとめるだけの整理がどうしてもつけられなかった。去年の8月に、ようやく当時の下書きの中からの抜粋を少し入れつつ、震災発生直後のTwitterの様子をnoteに書いてみた。

だから今日は、実際の景色を書いてみたいと思う。震災を機に、なんとなくずっと連綿と続くと思っていた「日常」が突然に暴力的に断絶したあの時。まずは震災当時、2011年3月24日に書き始め、書き終われずにそのままずっと下書きにしてあった当時の自分のブログ向けの文章をそのまま持ってきたい。まだ、記憶が鮮烈だった頃。

その瞬間、私は事務所でPCに向かって仕事をしていた。お客さんが一人来ていて、社長が対応している。その他母と事務員と私はデスクで各自の仕事を進めていた。ふと、事務所がゆっくりと大きく揺れ始めた。大きな地震でよくあるような「ガツン!」と大きな音がして縦揺れから始まる流れではなく、ただ建物がきしむ音から始まる大きな横揺れ。「地震だ、大きい!」と反射的にPCのアプリケーションをTweetDecに切り替えてつぶやいた。その瞬間、異様な光景に気付く。TweetDec上のタイムラインが、すべて地震一色に染まっているのだ。それは、本当に異様な光景だった。私がTwitterでフォローしている人は新潟や東京の人ばかりではない。全国の農家の方や農業関係者、音楽好きな人や音楽関係者その他興味がある人をフォローしているのでその分布はかなり全国的にばらけているはずなのだ。なのに、このタイムラインが地震一色に染まる。これは揺れが相当な広範囲に渡ることを意味していた。渦中、いみじくも一人がつぶやいた。 「凄い。TLが地震一色だ・・・」  まさにその通り。しかも揺れが長く続く。最初の大きな揺れが収まるまでに、数分。少なくとも14時49分、地震発生後約3分経過時点で私自身が「まだ揺れてる・・・」とツイートしている。その後事務所でも地震情報確認のためTVでNHKがつけられ、Twitterで各地の方がつぶやく状況も合わせるとその被害は凄まじいものだった。
TLには地震以外の話題は一切ない。実に異様な光景だった。地震発生後ほどなくNHKは地震の中継に切り替わり、東北~首都圏にかけての異様な光景を流し始める。それは、本当に異様な光景だった。首都圏をヘリから撮った映像では複数の場所から黒煙が上がり、新橋駅前では歩いていた人やビルから避難して出てきた人達が広場で皆立ちつくしている。ネットでは各地の地割れの写真等が出回り始め、とうとう大きな津波が押し寄せる映像が流される。その頃にはウチの店も「もう仕事している場合じゃない」ということで一端従業員を集め、皆でテレビを見ていた。大きな津波が東北沿岸に押し寄せ、田畑やビニールハウスも車も家もすべて呑み込んで押し流していく様、そしてその津波が河川にぶつかって大きな滝となって溢れて流れ落ちていく様は、凄まじいと同時にまったく現実感がなかった。不謹慎かもしれないが、「映画じゃないのか、これは」、とずっと思っていた。とても日本で起きている光景とは思えない。

当時自分が書けていたのはここまでだった。書くのが苦しくなったというより、このままただ当時のその後の情報の濁流のような流れを延々と書いていくことの終わりが見えなかったのだろう。そしてそれをどこまでも書いていくだけの気力と強さがなかったのだと思う。まだ震災発生から1ヶ月経っていない時の話だ。

実際にはこの後、仕事も途中で従業員含め全員上りにして自分も家に帰った。当時はこどもらもまだ幼児と赤ちゃんで、妻に連絡を取ろうにも当然もう電話はつながらない。新潟では人身に大きな被害があるほどの揺れではなかったとはいえ、何もないとは限らない。できるだけ早く家に戻りたかった。帰宅すると、妻は防災グッズをあるだけ出して、いつでも外に避難できるようコートまで着込んで下の子を抱っこしながら強張った表情でTVを見ていた。横にはその時ちょうど熱を出して寝ていた上の子がいる。とりあえずは一安心、とも言えないような中、その夜はずっと刻一刻と映し出される各地の被害の映像を見ながら眠れない夜を過ごした。途中何度も余震の緊急地震速報が鳴り響き、その度に大なり小なり揺れがくる。あれほど落ち着かない夜はなかった。燃え上がるコンビナートと気仙沼の、暗闇の中に不動の様で立ち上がる炎の映像が、何故だかずっと強烈に記憶に残っている。それはやはり、とても現実的なものに思えなかった。

翌日の仕事は年一回の展示会で、設営準備まですべて終えてから震災が発生したこともあり、今更中止にもできないということで予定通り実施された。お客さんも大体例年通り程度に足を運んでくれたが、話題は震災のことばかり。会場でもずっとラジオを聞きながら、逐一震災の状況を追いかける。その頃には福島の原発の話題がもう出ていて、メルトダウンという言葉にわけもわからず怯えているような状況だった。そんな中、女川原発まで異常が発生という報がラジオで流れ、展示会の会場の空気がさらに一層重くなったことを覚えている。次々に崩壊していく原発が、日本の終わりを告げているようにすら思えた時間だった。

そこからの日常は暗かった。気分的にもそうだが、実際に景色が暗かった。夜になって日が暮れた後、それまで街を照らしていた店舗から漏れる灯りや看板のライトアップもなく、自粛ムードの中走る車も震災以前より少なくなった暗い道。とにかく電気が足りない。そんな空気の中、どれが本当でどれがデマかもわからないような情報の濁流の中、ただ街は暗かった。不安だったかと聞かれれば、多分不安だったのだと思う。時間があればずっとニュースやTwitterにかじりついて、玉石混交の混乱した言論空間に疲弊しつつも、結局そこから逃げることもできずに重い気持ちを引きずって情報の濁流に流されていた。暗かった。重かった。

3月の中頃、妻の実家である佐賀に向かった。これは震災があったからそうしたのでなく、元々その時期に帰省の予定で早割の飛行機のチケットを取ってあった。新潟空港に着くと、自分たちが乗る福岡便は当時はまだ定期就航していた中国便と時間がかぶっていて、それに乗るためにおそらくは搭乗可能人数の上限一杯と思われるだけの大勢の中国人が、大挙して預かり荷物の検査に列をなしていた。震災後も何度も大きな余震があり、原発も余談を許さない状況であるこの日本から、言葉は悪いかもしれないが逃げ出そうとしていたのだろう。これは中国人だからということでなく他のどの国の人であっても、日本の外に帰れる国があるのであれば帰る方が自然だったと思う。それほど当時の日本は直接の被災をしていない新潟ですら暗かった。

新潟から2時間弱のフライト。福岡に着いてみたらびっくりした。街が明るい。店の灯りも看板のライトも街頭も、すべて何もなかった頃と変わらず着いているし、街中に音楽も流れている。そう、この時気付いたのたが、当時はBGMですらほとんど街中では流されていなかった。これまで何度も福岡には来ていたが、これほどこの街を明るく、また騒々しく感じたのは初めてだった。佐賀に行っても同じだった。新潟の暗い街並みに慣れた目には佐賀の夜は明るく陽気で、ここにいると震災は「ここではないどこか」で起きたことなのだなと思った。そして九州から見たら新潟も福島と同様の大変な被災をしたものと見えるようで、この被災のグラデーションは新潟と九州の距離ではもううまく伝わっていなかった。それも仕方ない。ただ、同じ日本でもこの空気の差には驚いた。確かに九州から見たら当時の新潟も被災地のようなものだったのかもしれない。

佐賀に妻とこどもらを置いて一人新潟に帰ると、そこはやはり暗いままだった。明るい九州を見た後だけになおさらその暗さが身に染みた。空港通りを通ってみなとトンネルまで向かう道は、普段ならたくさんの店の灯りで新潟としては比較的明るい景色だ。それがほとんど農道のように最低限の街頭だけで暗く黙り込んで沈んでいる。それは終わりのない重さに思えた。

この暗さに灯りが戻ってきたはいつくらいのことだったのだろうか。いつからまた街が明るくなってきたのか、それを正確には覚えていない。あの時新潟から飛び立った中国人たちは、その後何人くらい戻ってきたのだろうか。あれから10年経って、今は新型コロナというまた別の静けさに街は覆われているけれど、その前にあの震災から街は、自分の目に見える新潟は、そもそも立ち直っていたのだろうか。今になってそんなことを考える。

震災後の節電を中心とした生活は、最初こそ窮屈さを感じたもののいつしかそれが日常となり、気付いたらその日常がまた震災以前の日常に近い形に様式的には戻っていった。悪い言い方をすれば、震災という大きな非日常は思ったより短い時間で日常になり、そしてその日常はまた震災というものがなかったかのような日常へと変化していった。それは震災からの復興を意味するのだろうか?それとも震災の忘却を意味するのだろうか?

同じことが今の新型コロナの状況にも言えるのだろう。感染症対策を前提とした今の窮屈な新しい生活様式という非日常は、きっとそのうち日常になる。そして一度日常になったその様式は、いつかまたそれ以前に近い形に揺り戻されていくことだろう。それは克服なのか、油断や忘却なのか。

ひとつ心残りがある。それは震災が発生してからただの一度も、自分で被災地に直接足を運ばなかったこと。もちろん仕事だの家庭だの色々言い訳はあるけれど、それでも行こうと思えば行けたはずなのに。その景色を見ることで震災に対する思いはまた変わったのだろうなと思うと同時に、それはまた震災を観光と感傷として消費することにもならないだろうかとも思ってみる。でもそれも結局実際に足を運んでいない自分の言い訳だ。実際に東北に足を運んでみることで、その傷を少しでも自分の心に刻んでおくべきではなかったのか。その思いはきっとずっと残る。

東日本大震災に関しては自分は被災者ではないし、また被災者に、被災地に対して何もできていないという負い目をずっと持っていた。多分それもまたこれからもずっと引きずっていくのだと思う。節目の度に被災された方々を悼み思うとして、少々の寄付程度はしたとして、それでも自分はただ渦巻く非日常の中で翻弄されて立ち尽くすことしかできなかった。周りでその渦に立ち向かっている人たちを横目で見ながら。

10年経ってようやくこの程度の文章を書いたのは、自分が見た景色だけでも書き留めておけば、またさらに10年後に震災のことを思い出せるかもしれないという淡い期待もある。実際10年経ってみて改めて当時の自分が書いた文を読むことで思い出した感覚はたくさんあった。今からまた10年が経てば忘れ去られることはまたさらに多いだろう。その時に思い出すための一助として文章を残しておくことは、記憶の風化を防ぐという意味は少しくらいあるのかもしれない。直接の被災者でもなく、さりとて完全に傍観者にもなれなかった自分の記憶の記録も、震災に対する一つの立場であり目線であるのには違いないのだから。

あの大きな災害から10年。改めて被災された方々に心からお見舞い申し上げます。


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