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キムチを食べながら

最近よくキムチを食べるんです。
わたしは辛いものが苦手なので、今まであまり食べたことがなかったのに、キムチの美味しさを知ってからというもの、冷蔵庫にあるキムチの在庫を切らしたことがありません。
スーパーに売っているキムチはそこまで辛くないですもんね。わたしは和風だしが効いているものが好きです。美味しい。

今日もいつものようにパリポリ噛んでいたら、ふと頭に浮かんだ言葉、「可能性」。
なんだか可能性について考えちゃうんですよね。

可能性って自分で見出すことよりも、他人が見つけてくれることの方が多いと思うのです。
これは自分についての可能性という意味です。
わたしはこう思ってたんだけど、そこなの?って違和感を感じた時。その違和感って、実は自分に秘められた可能性だったりするのではないか、ということです。
いわゆる、伸びしろって呼ばれるものも同じで、自分がどの方向に伸びていくかって本人にはあまり分からないんじゃないかなと思います。少なくともわたしはそう。

可能性とか伸びしろって、他人が決めてくれることなのかなぁって考えたこともあります。

わたしは自分が空っぽだとよく自慢しているのですが(果たしてそれは自慢なのか)、他人に「あゆみってこうだよね」と言われる度に、その人の前ではこうしなきゃいけないっていうプレッシャーと一緒に、自ら自分の首を絞めていたところがありました。
だから本当に窮屈。いつか爆発する。あなたはこうですねっていう言葉に縛られて、好きなように身動きが取れないんです。

でも他人がそう言ったことが、もし自分が秘めている可能性だったとしたのなら、わたしは今までそれをだいぶ取り逃しています。
自分ってなに?の答えは、人に作られていくってこと。そんな気もするのです。

わたしは自分の軸がブレることをとても辛く感じてきたし、ブレてきたツケが今ここに来てるんだって思っていますが、そのブレるところに自分の可能性があるとしたなら。
そう考え直すと、わたしはとても楽になります。

目の前の人の感情が、わたしの空っぽな器にどんどんなだれ込んでくることを、辛いと思うのではなく、自分の才能だと見方を変えてみると、逆に才能あふれるクリエイティブな人間なんじゃないかと、「わたしってスゴイでしょ星人」になれるんじゃないかと思うのです。過剰な言い方かもしれないけど。

人によって全く逆の評価をされてどんどんブレていく自分に、可能性感じてもいいんじゃないの?って思ってみたり。
いつもわたしは幼稚だと自慢しているので(果たしてそれは自慢なのか2回目)、凄い極論で突拍子もなく、すぐに論破されるような考え方だけど、それで自由になれるならアリだなって、キムチを噛み続けながら思いました。
なんでキムチ?と思いましたが、食べなかったものを食べるようになったから?かな?

結局、自分のことなんて人に聞かないと分からない。

話変わりますが、キムチのフタほど開けづらいフタはないよねって開けながらいつも思うのですが誰か綺麗に開けるコツを教えて下さい。
容器がフニャってなって、そのフニャの上でフタがガッチリとハマっているので、開けるたびにキムチがちょっと飛び散ります・・・って、気持ちわかる人います?

いつもそこで、ちょっとイライラする。