茶碗屋談義
わたしの父の実家は、京都の清水焼の窯元だ。
祖父(父の父)がはじめ、伯父(父の兄)が継ぎ、今は従兄が三代目をしている。
つい先日、父の姉が夫婦で遊びに来てくれた。おしゃべりしながらお茶を飲み、お菓子を食べる。その器は、京都のものばかりだ。
ただ、そのほとんどがもらってきたワケアリ品。釉薬がわずかにはみだしたり、うすーくひび割れていたり、じっくり見ないとわからない程度だが正規品にはなれなかったもの達だ。そんな器を使いながら、茶碗屋一家による、「これはどこに難があるのか」の目利き大会が始まる。なんていやな集まりだろうか(笑)
さらにはそれぞれの器を、「これは初代の、これは二代目の、これは三代目の」とアテをつけて「◯◯ちゃん、ここら辺がおじいさんに比べるとまだまぁやなぁ」とか品評会を始める。
こんな様子を天国から見ているおじいちゃんと伯父さんは、何て言っているだろうか。「勝手なこと言いなや」と思っているかもしれない。
でも、みんなで故人の器を囲んで、おなじ時間を持てるのはすてきなことだと思う。100均の器では、こうはいかない。
昨今、茶碗屋業界もご多聞に漏れず不景気だ。華やかだった時代は、お茶屋さんが季節ごとに器を全部入れ替えで買ってくれたらしい。でも、いまはそれこそ工場でマシンがつくる器で充分とするところが多い。時代の流れには逆らえない。今後、衰退していくであろうことは想像に難くない。
だが、わたしは茶碗屋一家の端くれとして、これだけは覚えておきたい。
作家の器には物語がある。
作品なのだ。
これからも、大切につないでいきたいと思う。
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