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「嫌いな男が胸を触ってくるのに怒り、好きな男が触りたいと思うお尻が欲しい」

「嫌いな男が胸を触ってくるのに怒り、好きな男が触りたいと思うお尻が欲しい」



1970年代、ウーマン・リブを牽引した人物のひとりである田中美津さんという女性がいる。

これは彼女が述べた言葉の一説だ。

このフレーズはわたしの考え方に深く根ざし、日常の中の多くの決定を下す血液としてからだの中を巡回している。

女として社会を生きていると、性的な目線で勝手にジャッジされることが如何ほど多いことか。

つまりは直截的な現代言葉を借りると、性的対象として、”ヤれる”かどうか。

それは不快極まりない現象である。生きづらさを感じる要因である。

 生き物・動物・人間・わたし である前に 女 として扱われる。

しかし、そういった社会で生きている以上、その現象を内面化してしまっている自分もいる。否定できない。

_____だって好きな男の前ではかわいく見られたい_____

というか、好きな男の前でしか女になりたくない。演じたくない。

わたしの中に住んでいる 女 は、

自分の都合の良いタイミングで、切り札として自分の幾つかある手札の中から引っ張り出してきて使うもので、だれかのタイミングで勝手に使われるものではないからである。




田中美津さんのフレーズをわたし流に(現代流に?)言い換えるとこうだ。

「どうでもいい男の前ではビールを飲み、好きな男の前ではカシスオレンジを飲むわたしでいたい」


わたしはビールが好き、ビールを飲みたい。

それは、ビールの風味が、のどごしが、アルコール飲料として、なによりもわたしがビールを好きだから好き。

だがその反面、

カシスオレンジを注文するかわいい女でいたい。

それは好きな男が目の前にいる瞬間限定で。

好きな男の前では、”女らしく”あってもいいし、女らしく演じるし、そういう女優な自分を肯定する。
この両面を所持していていい。


ビールとカシスオレンジが混ざり合った血液を身体の中に流す。

これは決してわがままで傲慢なことではないし、そう定義させない。

社会や、自分以外のすべての人がそれをわがままで傲慢であると定義したとしても、わたしが最後の一人になっても、わたしはわたしのことをわがままで傲慢とは定義しないという覚悟。

それでこそ人間、それでこそわたし。



おわり。

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