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相続放棄

みんなを導く灯台ホテリエ@あゆみです。
ホテリエとはホテルで働く人のことです。

今回は両親の相続放棄についてです。

相続放棄させられていた

両親は相続放棄させられていたんです。
介護をして15年、亡くなってから私は知りました。

思い出せばちょうど脳梗塞で祖母が倒れて退院して
結婚式の直前のある日の夜に父も早く家に帰ってきて
書類を書かされていました。

その時にやったのだと25歳になって点と点が結びつきました。

母の兄の嫁さんがうるさかったようで
私たち家族が兄名義の家に住んでいたことも気に入らなかった
財産も奪われると騒いでいたようです。

15年介護したのに…

祖母が亡くなってすぐに叔父(母の兄)から
「これからは家賃が5万だったけど7万(8万?どちらか忘れました)
にしてもらいたい」
の話がありました。

その言葉に両親もがっかり。
祖父母の財産は叔父が管理していました。
今までは祖母の生活費も家賃と相殺で振り込まれていましたが
足りない分はこちらで負担していました。

オムツや食事の際に必要なとろみパウダーなど
お金はかかります。

15年介護で私たち家族は気軽に外食も行けることなく
拘束されてきました。
何をするにも祖父母第一の生活でした。

一晩中声を出して両親は眠れない夜もありました。

祖母の最後は食事も1人ではできない、
水分補給も1人ではできない状態で真夏でも熱中症になっては困ると
水分を与えて汗もかくので着替えさせる。

クーラーがなかったので大変ではありましたが
目の前でできることは精一杯しました。

着替えで洗濯量も増えたので水道局の方に
水道メーターが上がってるのはなぜと指摘されたこともありました。

家賃は3か月分無視で兄名義で住宅ローンも通り
引っ越しました。

財産が欲しいわけではない

両親は一切財産が欲しいわけではありません。
財産なんていらないし、母の兄と嫁関係が悪くならないようにと
相続放棄も承諾しました。

居住権というのもあるみたいですが
静かに私たち家族は家を出て行きました。

15年介護して両親は感謝の言葉が欲しかっただけです。

今でも時々不満の言葉は出ます。
相手側の世界や事情や思いもあるとは思いますが、
介護している間も様子を見に来ることもなかったです。

時々様子をみにきてオムツやら持ってきてくれるだけでも
両親の気持ちは変わったと思います。

最後に

私たち家族はそこまで会話が多くなく仲良しでも不仲でもありません。
家庭崩壊にまではなりませんでしたが、
両親も精神的に参ったことも何度かありました。

○○してしまいたいと思ったこともあったそうです。
介護疲れの○人のニュースを見る度に言います。
実際そんなことはせず、最後まで見届けたのだからよかったです。

世話をするのも大変ですが、
祖母の最後の姿を見ているのも辛かったです。

認知症がひどくなり意思疎通もできない
(たまに痛い、苦しいと言ったのはわかりましたが…)
自分で身動きもとれない(歩けない)
自分で食事もできない、好きなものを食べることができない
長生きできることはいいことでもありますが、
はっきり言って生かされている状態でいいのかな?
とも思いました。

お金ばかりの叔父夫婦に悩まされた15年でもありました。
今は連絡すらしていません。


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