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私は、大人の殻を破りたい「大人コドモ族」

大して心は大人じゃないくせに、何故か「大人」になろうとする私たち。
これを読んでいる名も知らないあなたも、無理やり大人になっている瞬間はないだろうか?

私が絵本を好きな理由

今日はお気に入りの本屋で、大好きなヨシタケ シンスケさんの絵本を購入した。「もしものせかい」は贈り物としても何回も手にしているくらい大好きな一冊。絵本というと小さい子供の為だと言う人もいるけれど、実はそれだけではない。特にヨシタケ シンスケさんの作る絵本は大人にこそ読んでもらいと強く思っている。そして、読んでいて思う事は大人になりきれない事は、そんなに悪い事ではないんだなあという事と、そんな「大人コドモ族」で私はあり続けたいという事。

年齢だけが大人になった

子供の心を忘れていない大人が私は好きだ。
でもそんな”子供の心を持った大人”は多くはいないんじゃないかと最近思う。反対に大人の殻を被っている大人は沢山いる。
会社にも街中にも、友達やかつての恋人達にもいる。
たまに遭遇する「体は大人、心は子供(ちゃんとする時はちゃんと大人のはず)」は大体「変な人」としての扱いを受けている事が多い。
カフェにいる”イヤホンをして音楽にのっている人”や”道端のベンチに座ってぼーっと何かを眺めている人”を私自身も昔は「変な人」として認識していた。でも、年々私もそちら側に仲間入りをしてきているなと思う。というかそれが誇らしいとすら思っている。

年齢を重ねるごとによく耳に入ってくる言葉がある。

「もう○歳だから」「もう大人だから」「落ち着かないといけないから」


私はこの言葉があまり好きではない。
この言葉を聞くと急に世界が狭くなるように感じる。
かくいう私も何かを決める時や選択しなくてはいけない時には
まだまだ、年齢の事がふと頭をよぎる時がある。
その度に『うぅ…なんて生きづらい世界なんだよぅ…」と頭を抱えてしまうのだ。結婚や仕事、自分自身の体や心の事など、将来の事を考えると『年齢』という文字が頭に浮かんで重くのしかかってくる時がある。その度に「いや、今日という日が人生の中で一番若い日なんだ!」とか「何歳になっても挑戦していく人生でいたいんだ!」とか「人生100年時代!まだ60年以上あるぞ!」という言葉たちになんとか救助されながら今日を過ごしている。
成人を迎えたら私たちは”晴れて”大人の仲間入りとなる。今なら分かる。全然晴れじゃないという事が。

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成人して酒に溺れたあの日

成人式を迎えたばかりの私は社会的に大人の仲間入りができた事が嬉しくて仕方なかった。高校を卒業して学校には行かずにすぐに社会人になった私は、やっと堂々と大人になりましたと言えちゃう!お酒だって飲めちゃう!そんな事にはしゃいでいて成人式の日には案の定酒に溺れ、翌日は二日酔いでひどい一日を迎えた。そこから気づいたら6年が経っていた。20代前半はもっと大人になりたくて仕方なかった。30歳に近づくにつれて自然と雑誌の中のような大人の女性に進化していくものだと、それが当たり前なんだと、心のどこかで思っていた。けれど6年経ってみた自分に待っていたのは、大して中身は変わっていないという現実。そりゃ、社会人として経験を積んで、私生活でも山や谷も越えてきて、ある程度「大人」にはなれたかもしれない。でも、根っこの部分は大して変わっていない。言ってしまえば16歳の時から。さらに言ってしまえば6歳の時から。子供の自分はずっと心の中にいる。

YouTubeやTiktokが流行っている理由

きっと世の中は私と同じような大人が実は溢れかえっていて、「子供に戻れる瞬間」を今か今かと様子を伺っているんだ。YouTubeやTiktokが近年流行しているのもそれが理由の一つだと思う。「子供返り」をした同じ大人を見て馬鹿だなぁと言いながら、どこかで羨ましさを感じている。もしくは抑えていた、自分の中の「大人を辞めて子供に戻りたーーーい!!」という気持ちが溢れるきっかけになったり。(それが新たなYouTuberもしくはTiktokerを生み出す。)少なくとも私はそのうちの一人だ。大人という殻は私には重たすぎて肩こりが悪化する一方だし、自由に生きられないというのは、まるで水の中にいるように苦しい。

心の中にいる子供の私が叫んでいる事

大人になっても雪が積もれば雪玉は投げたいし、ピカピカツルツルの泥団子を作りたい。街を歩いて耳からお気に入りの曲が流れ始めたら、映画の主人公になったように踊りたいし、流行に関係無く好きなものは好きだと主張したい。何かあれば素直にごめんねとありがとうが言いたいし、A5ランクのお肉よりも母の作るお粥が恋しい。他人にどう見られるかを気にしなくてはいけない仕事よりも、変人だと言われても自分らしく働ける仕事がしたい。自分の表情筋には営業スマイルを形状記憶させるよりも、感情に合わせて自由に働いてもらいたい。好きな人には好きだと伝えたい。

人間社会を生きる為には責任・義務・世間体・一般論など沢山のものが必要になる。これを全て取り払う事は難しいかもしれない。それを背負いながらも心は自由に生きられる方法を模索するしかない。

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大人コドモ族はどこにでも潜んでいる

けれど絶望してはいけない。時代は確実に変わってきている。
土の時代から風の時代100年が来たとも言われているように、世の中は少しずつ変化している。コロナという大きな波が訪れて働き方や考え方、生き方の選択肢がひろがってきている。

今か今かと身を潜めていた「大人コドモ族」の仲間達が、静かに喜びの声を上げ始めている。「大人コドモ族」の先輩方が今まで残してくれた”人生を謳歌する生き方”そしてそれが認められる世の中への流れ。その流れに乗るかどうかは、どこまで行っても自分次第で、この先、歳を重ねる度に「もう歳だから…」と言い続けるか、おっかなさに身を震わせながらも「それでも人生楽しみたいたいんだよぅ…」と一歩踏み出していくかも自分の選択なんだと思う。私は引け腰でびびりながらも「大人コドモ族」の仲間入りをしようと思う。ある日「やめときゃ良かった!!」と思ったとしても、その時はその時で何とか生き延びながら小さな幸せに感謝しつつ余生を送ろう。26歳の私よ、人生は長い旅で旅は恥の掻き捨てなので、もっと自由に変人のように生きていって下さい。よろしく。


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