まだ読んでないのに語ってみる『国語の辞典をテストする』
先日、辞書に関する記事を書いた際に「暮しの手帖」に掲載された「国語の辞典をテストする」という記事を読みたいと、そう書いた。すると、なんと、Akioさんがこのような記事を届けてくださったのである。
もう、テンションは爆上がりで、
「読みたい」が
「読みたい!読みたい!読みたい!」
くらいにはね上がってしまった(笑)。
記事の後半でテストの要約を提示いただいていて、とてもわかりやすい。上手くまとめてくださっているので、もう十分といった感じなんだが、いやいや、どんな語彙をテストしたのかなど微に入り細を穿って知りたいんだからしょうがない。
日本語の近代辞書は、明治期に作られた『言海』が最初だと言われている。ウェブスター辞書が上梓されたのが1806年、OED(オックスフォード英語辞典)の編纂が開始されたのが1857年。大槻文彦が『言海』を起稿したのが明治8年、1875年のことである。ウェブスターにに遅れること70年。『言海』の発行にはさらに17年の時を要す。OEDはというと編纂開始は1857年であったものの、発行が始まったのは1884年。こちらは国中から(いや世界中から?)用例を収集しているため収録語数も膨大であり、とにかく、別格である。
このころ、国語の辞書を持たずしてそは文明なりやというような風潮があったようだ。開国したばかりの日本にとって辞書編纂は必須であり、また急務でもあった。というわりには、編纂は大槻文彦たった一人で成されている。なんというか、この国のすることといったら。イギリスが国をあげてOEDを編纂しようとしているのに、日本はその国語辞書を大槻文彦一人に丸投げである。「大人数でやっても時間がかかるばかりなので大槻一人でやる方が早いだろう」などと進言した方もおられたらしいが、それだからといって「はいそうですか」というのは如何なものか。こういう基礎研究にこそお金をかけてもらいたいものだ。辞書編纂というのは未だあまり評価されないようだが、それもこういうところに起因してはいまいかなどと勘ぐってしまう。
とは言え、大槻文彦は成し遂げた。今でも辞書編纂は容易ではないが、明治当初など想像をはるかに超える。多くの専門家の知見も必要であったが、大槻文彦はその専門家を直接たずねるしかなかった。とにかく、ネットどころか電話さえもなかった時代である。さらに訪ねるといっても交通もままならない。1つ情報を得るのがいかに困難であるか。その労苦を大槻文彦は「ことばのうみのおくがき」に記している。
この「ことばのうみのおくがき」でもわかるが、『言海』はウェブスター辞書に倣ったところも多分にあったようだ。
ウェブスターは大辞典を出したもののあまり売れず、簡略版を全判の紙を八つ折りとしたオクタボ版で出版した。『ことばのうみのおくがき』にある「オクタボ」とは、この版のことを指す。
先日、ウェブスターの辞書編纂者の方が書かれた本を読んだのだが、さて、そこでは語釈の書き方にちょっとしたルールがあるらしい。
まず、名詞は名詞として、動詞は動詞として定義するということ。語釈をそのまま入れ換え当てあてはめれば文として成り立ち、意味が通じることを良しとする。
そして簡潔であるということ。これも入れ換えて文が成り立つということに影響するのだろう。事実、ウェブスターの語釈はたいへんに簡潔である。例えば「run」の第一語義は次のようなものである。
まことに簡潔である。
「run」を「go faster than a walk」に置き換えれば文章が成り立ちそうだ。
また、同義語があればそれを指すことでも語釈とする。そうすることで、この語とあの語が同じ意味であると把握できる。単に言い換えて怠慢しているわけではなく、同じ意味の単語を明示することを意図している。
またさらには、過去の辞書の語義を使うこともあるようだ。ただ、ウェブスターは単に転記して終わりとしているわけではない。都度語義を点検している。『ウェブスター辞書あるいは英語をめぐる冒険』の『Take 小さくも厄介な言葉』において、著者が「Take」の語釈を見直している様子はたいへんに興味深い。ほんの少しを書き換えるというような、そういったことも少なくないようだ。少し引用してみよう。
英語の原文は記載されていないが「expose」を「put」に書き換えたようだ。たったそれだけの語釈の変更である。
過去の辞書を踏襲しつつ、簡潔に語義を定義する
これがウェブスター辞書の基本にある。そして『言海』はそれに倣った。その後に作られた辞書の多くも続いたものと思われる。
他の辞書の語釈をそのまま使うということについて、それは別に辞書の存在意義を疑われるとか、ましてや盗作などということにはあたらないのだろうと思われる。言葉は膨大である。日々、新しい語も作られてゆく。人々が意図するしないに関わらず。それを、少数の人だけで辞書にしていくのはかなり困難だろう。他の辞書から転記するのは互いに補完し合ったり融通し合ったりすることで、なんとか少しでも現代語をカバーしようとしている努力の現れであるかもしれない。コーリー・スタンパーはそのことについてあまり多くを語ってはいないが、あるいは、そうするだけのメリットや積極的な理由があるのではないか。ふと、そう感じた。
件の『国語の辞典をテストする』であるが、多々に苦言を呈している。その中には、複数の辞書で収録語が似かよっている、語釈も似ている、といったものがある。どこそこの辞書を転記しているだけではないかという指摘だ。また、語釈が短すぎてわかりにくい、別の語彙を参照させられる、といったものもある。
こういった指摘に対して、一方で辞書出版社、辞書編纂者は一家言を持つことはなかったのだろうか。この『国語の辞典をテストする』については二つの書籍で知ったが、その後論争に至ったというようなことは聞かない。辞書編纂側からの意見も聞きたかったと思わないでない。
もうずいぶん前になるが、「二番じゃダメなんですか?」という言葉が流行ったことがある。2009年に民主党に政権があった時「事業仕分け」というものがあった。従前の国の予算の使い方を見直すというのが狙いだ。民主党議員が官僚などを問い詰めるというような感じだったろうか。公開で実施されたので、広く関心が集まったことと思う。その「事業仕分け」において、スーパーコンピューターもターゲットになった。「二番じゃダメなんですか?」は、その時に民主党議員の蓮舫さんが発した言葉だ。
私は富岳にお金をかけてもいいと思っている。そういう技術や研究に予算を回して欲しいといつも思っている。彼女、蓮舫さんが「二番じゃダメなんですか?」と、そう発したことは構わない。その予算が必要なのかと問うているのだから。目を閉じて予算をじゃぶじゃぶと出しませんよと言っているだけだ。問題は答えだ。もう、あまり記憶にないが、どうもしどろもどろだったような気がする。私は一席ぶってほしかった。若い人たちの研究意欲を削がないでほしい。若い人たちに大いに研究させるべきだ。それこそがこの国の未来へとつながる。一番二番が問題なのではない。この情報化社会において情報の処理能力というのは速度もその内容も極めて重要である。これからは更に重要になる。科学、技術、経済、防災、福祉、医療、衛生すべてにおいて放置するわけにはいかぬ。そんな風にとうとうと語ってほしかった。相手を説得するのではない。自分の信じることを語ればよい。
「国語辞典のテスト」からの問いかけに対して、辞書編纂に携わる方々は思うことはなかったろうか。あの時から辞書はどれだけ変わったろう。辞書同士の類似を見ることはもうないのだろうか。短すぎて分かりにくい語釈もないのだろうか。あれから半世紀が経つ。確認したわけではないが辞書はあまり変わっていないように思う。あまり変わっていないというのは、ただの怠慢なのか。それともそれが辞書のあるべき姿なのだろうか。
言葉はどんどん変わり続ける。このネット社会において、それはさらに加速するかもしれない。国語辞典は現代語を把握していけるだろうか。
頑張れ国語辞典!
ああ、それにしても「国語辞典のテスト」を読んでみたいものだ。ワープロもなかった時代に、手書きで書き出しながら比較し点検したんだろうなぁ。テストが指摘した内容に反論することこそが、テストしたその労に答えることになりはしないだろうか。
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