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イオマンテをどう描くか

送られてゆく、カムイの視点を、初めて見た。


「AINU MOSIR」とは、「アイヌの土地」を意味する。この映画の舞台はアイヌの阿寒湖コタンだ。観光地で育ってきた少年カントと共に物語は進む。カントの父はすでに亡くなっており、部屋は在りし日の姿そのままに、静かな悼みを伴いながら1年の時が経過していた。母は観光工芸店を営み、伝統文化を伝える活動に勤しんでいる。デボは亡き父の友人であり、カントを森に連れ出してアイヌの伝統を彼に教える。いつか阿寒を出ると言っていたカントも、自然とデボを慕いはじめ、自らアイヌの儀式を行うようになる。そんなカントにデボが勧めたのは、……子熊の世話であった。

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この映画は、イオマンテを扱うのか。正直、あらすじを聞いたときに胸がドキリとした。イオマンテに正解を出し切れていない自分自身が、この映画でその答えを探すつもりで鑑賞していた。映画から一瞬離れ、私の話をするが、初めてイオマンテを知ったのはいつだったかもう覚えていない。その時に受けたショックもあまり記憶にない。アイヌの精神世界に関しての知識があったためか、自分がそれを否定的に感じたことはなかった。イオマンテを巡り論争があることは知っていたが、アイヌの文化を理解しない側に問題があると個人的には思っていた。しかし、他の人の反応を見た時に、この問題が簡単なものではないと知った。大学の授業でイオマンテの映像を見たのである。AINU MOSIR劇中に出てきた映像と、きっと同じものだ。初めてアイヌについて知った友人たちは衝撃を受け涙した。その時初めて私は、これが本の中の出来事ではないこと、熊を殺すことが、彼女らの目を通してどのように見えるのかを間接的に味わった。違うんだ。これは大切な儀式で...と言っても、私はいちシサムであるので、頭に入れた理屈しか言えないけど。でも、きっと彼女たちには残虐に映っているのだろう。それはわかった。どうしたらいいか分からなかった。でもきっと何れにしても入門にしては最悪な題材で、イオマンテを扱うなら、前提となる理解を養う必要がある。そのように結論づけていた。そのために、冒頭のように、イオマンテを扱う本作に警戒心を抱いたのである。

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やはりカントは子熊のチビを殺すことを受け入れられなかった。父が望んでいたことであったとデボに伝えられても納得できなかった。檻の鍵を探して逃そうとしても鍵が見つからず、送られるチビを見守ることはできず、1977年のイオマンテの映像をたった1人、父の部屋で見ていた。1977年の映像と現在のイオマンテのシーンが交錯しあう。とどめが刺さった映像を見た時、カントは部屋を出て走り出し、カムイモシリに帰る彼の姿を見るのである。

『死んだ人らが住んでる村あるんだってよ、1回行ってみるか』

カントは以前デボに教えられた「死んだ人らが住んでる村」への入り口である洞穴までやってきた。チビを弔うためか、と思ったが、必死に洞穴に向かって雪を投げつける姿に、感情を咀嚼し切れない少年の心を感じ取った。父に会いに来たのだ。どうしてイオマンテを望んだのか。どうしてチビは殺されたのか。

きっとこの洞穴は、ahunrupar(アフンルパラ)すなわち冥界の入口のことだと、私は思う。ここで予告編でも映画の冒頭でも見たシーンが再生される。赤いウェアを着たカントは真っ直ぐに正面を見る。視線の先には、洞穴の深淵。背景の白い雪とカントの鋭い眼差しのコントラストが印象的な画だ。「少年は、世界に触れた」。これがこの映画のキャッチコピーだが、ここで言う世界とは、2通りの考え方があると思う。1つはアイヌの精神世界。2つは...ahunruparの先にある世界。

ふ、と背後に誰かが現れる。中年の男だが、今まで登場したコタンの誰でもない。音もなく、声もなく、彼は現れる。カントがここまで来た道のりには明らかにいなかった存在。

『稀に向こうの村から逢いに来ることはあってもこっちからは行けないんだって』

『何それ……それって、ずるいな』

父は子を優しく受け止め、吹き荒ぶ子の心を静かに撫でる。無音の雪景色に抱きしめ合う父と子の姿に、確かに温度を感じる。慈しむ父の表情。ここで初めて、父を亡くしたカントの心情が映し出された気がした。頭では分からなくても、カントと私たちの心は溶けてゆく。

コタンに戻ったカントは、祭宴の中央に佇むキムンカムイの姿を認める。キムンカムイとは山の神、すなわち熊を表すアイヌ語だが、ここではカムイモシリに帰るチビをキムンカムイを呼ぶこととする。カントがキムンカムイの瞳を見つめると、朧げな視界に切り替わり、私たちはカントを見つめるのである。この視界は一体誰のものか。紛れもなく、送られてゆくカムイの視点である。キムンカムイはこれからカムイモシリに帰り、ここでの暮らしのことをほかのカムイに伝えるのだろう。アイヌモシリで自分を育ててくれたカントのもとにほかのカムイが訪れ、恵みをもたらすように。

正解はない。ただこの作品は、現代社会が抱えるイオマンテをめぐる葛藤も、極めて美しいアイヌの精神世界も、双方を丹念に描いている。そして、カントの心の中にぽっかりと空いた「父」の空白も、アフンルパラを媒介して丁寧に埋められていく。

アイヌとは、シヤモとは。イオマンテは行われるべきか。そうした複雑な主題に対して一面的な解釈を与えずに、ただひたすらに、カント自身の感情に寄り添う一作であった。




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