贋作・美しい星

気配のしない朝が好きだと気付いたのは、小学5年生のころだ。旅行に出かける朝、時間は4時ごろだったと思う。まだあたりは薄暗く、人も、車も、ハトやスズメでさえ、姿を見せなかった。季節は夏だというのに、深呼吸すると肺が冷たくなるほどに、ツンと冷えた世界。気配もしない朝、きっと眠いはずなのに、緊張感が張り詰めて、目が冴えた。

あれから10年以上経つ。大人になったいまも、たまにこの時間に起きている。9月も中旬に入り、夏は少しずつ遠ざかっている。この時間に半袖で出歩くと、肌寒さを感じるようになった。自動販売機はまだ「つめた〜い」しか置いていないから、水筒には一杯分のホットコーヒーを入れてある。

アパートから歩いて5分もかからないところに、小さな公園がある。このご時世にあっていまだに灰皿が設置されていて、昼間はサラリーマンやタクシーの運転手たちが集まる喫煙所になっている。でもこんな朝早くには、誰もいない。そこにある汚れた青いベンチに腰掛けて、タバコに火をつける瞬間が、これ以上なく好きだ。止まった世界のなかで、ただひとり。僕はちいさな明かりを灯して、紫煙をまとう。タール11mgが肺を満たしていく。水筒のホットコーヒーに口をつけると、唇がピリッと痛む。生きている。ひとつも気配のしない朝に、僕だけが生きている。

家に戻り、少しだけ眠る。そのあとシャワーを浴びて、身支度して、家を出る。扉を開けると、もう世界は息をはじめていて、街は気配に満ち満ちている。駅まで歩き、改札へ。誰に習った訳でもないのに、流れを壊さないようにスムーズにIC乗車券をタッチし、もう慣れてしまった満員電車に乗って、会社に向かう。機械的に仕事をして、機械的に食事を済ませ、機械的にコミュニケーションをとる。19時には仕事を終わらせると、恋人と待ち合わせた駅に向かう。いつもと変わらない挨拶を交わし、いつもと変わらない店に向かい、いつもと変わらない味を楽しんで、いつもと変わらないキスをする。そうして僕はまた、アパートへと帰っていく。

何も起こらない日常の中で、僕は自分がどこにいるのかわからなくなっていく。起きているくせして、眠っているように。退屈と感じることもなく、ただただ繰り返す。笑っても、怒っても、悲しくても、僕は自分が生きているのかわからなくなってしまう。

明朝、4時。僕は無理やり、身体を起こす。まだあたりは薄暗く、人も、車も、ハトやスズメでさえ、姿を見せない。深呼吸すると肺が冷たくなるほどに、ツンと冷えた世界。誰も生きていない世界に、僕は起きる。タバコに火をつけ、ホットコーヒーをすする。唇に、熱が伝わるその瞬間。誰もいない世界で、僕は誰よりも生きていることを感じる。

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