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贋作・コーヒーが冷めないうちに

この喫茶室には、二度訪れたことがあった。はじめは、引っ越し当日だった。業者がてきとうに荷物を運び込んでくれるというので、時間つぶしにフラフラ歩き回った先に、ここに訪れた。暑い日だったので、アイスコーヒーを頼んだ。店内のBGMまでは覚えていないが、店員さんがかわいらしかったことは覚えている。

その人が店長だと知ったのは、二度目に訪れた時のことだ。その時は恋人と訪れて、コーヒーと一緒にサンドイッチも頼んだ。学生風の男の子が注文を取ってくれて、彼女に向かって「店長」と声をかけていた。それで「若そうに見えるけれど、しっかりしているんだねえ」と感心した。

それからは、足が遠のいた。というか、喫茶室だけでなく、外に出ることが極端に少なくなった。原因は、恋人と別れてしまったことだ。僕は意外と出不精だったのだと思い知らされた。特別な予定がない限りは家で一日ゆっくりと過ごしてしまう。一人の休日は、パテ抜きのハンバーガーか、餡のないたい焼きのようなものだ。午前のうちに起きてコーヒーを淹れる。トーストにバターを塗って、かんたんに朝食を済ませる。それからは本を読んだり、映画を観たり、昼寝をしたりで、なんとなく夜になっている。夜は夜で、テレビのチャンネルを回しているうちにいい時間になっている。

暇を感じているわけではないし、ストレスも生まれない。恋人がいたころは、映画は映画でも、わざわざ新作を観に映画館へ足を運んでいたし、大して興味のない水族館や美術館にだってしょっちゅう行っていた。今になって思うと、それが嫌だったわけでもないが、好きだったわけでもなかったようだ。家に座す。自分の居場所に居続ける。それはもちろん、居心地の良いものだった。悪くてたまるか。

しかし、空虚だった。マグロは泳ぎ続けなければ死ぬというが、人間も似たようなもので、自分の休日の過ごし方は、死んでいるのに近しいものだと思うようになった。刺激を受けず横たわる時間は、ひたすらに虚しかった。

それで、この喫茶室に辿り着いた。ひとまず家を出てみようとブラブラしたものの、目的がないと何とも出会えなかった。疲れてしまった僕は、せめて落ち着いて煙草を吸おうと思い、倒れこむように足を踏み入れた。

「いらっしゃいませ、お好きな席にどうぞ」

迎え入れてくれたのは、あの店長だった。お好きな席と言っても、小さな店内には何組か先客がいて、カウンターに数席を残して満席だった。仕方なく腰掛けて、メニューを眺める。

「ご注文は?」

「ええとね、ホットコーヒー。あ、灰皿をひとつ」

彼女は「かしこまりました」と微笑みを浮かべた。やはり若く見えるが、よく見ると首や肌にハリがあるとは言えず、意外と同い年くらいなのかなと失礼な想像をしてみる。妙齢、というやつか。

ガヤガヤしている。落ち着いた喫茶室という雰囲気はなかった。テーブル席では井戸端会議が繰り広げられ、煙草をふかすおじさんたちは、小さなテレビに映されるレースの行方にああだこうだと文句をつける。

「お待たせいたしました、ホットです。あと、灰皿」

差し出されたのは、真っ白の飾りっ気のないカップ。深い香りが漂う。さて、と口をつけるが、外気で冷えた唇には少し熱すぎたようで、思わずすぐに口を離してしまった。

「熱かった、ですよね?すみません、うちのホットは、熱すぎるくらいで淹れているんです」

店長が、申し訳なさそうに声をかけてきた。「いえ、大丈夫です」と答えてみるものの、すぐに二口目とはならなかった。

「高温で淹れると、苦味が濃く出るんです。それに、うちの豆は深煎りなので、それがちょうど美味しいと思っているんですけど」

「確かに、温度で味わいは変わりますよね。これ、カップも温めてあるんですね」

店長は、少し驚いたような表情を浮かべた。

「コーヒー、好きなんですね」
「まあ、嗜む程度に、自分で淹れています。香りが良かったから、カップも温めてあるんだな、と思って。素人の浅知恵ですけれど」
「家でも、カップも温めて飲まれているんですか?」
「ええ、まあ」

それは素晴らしい、と彼女は嬉しそうに笑った。そして僕の耳元に口を寄せ、この店の常連さんには、コーヒーの味がわかる人なんていないんです、と囁いてきた。

どきり、とした自分がおかしかった。よっぽど人と遠ざかって生きていたんだな、と感じた。パーソナルエリアというものを意識しているわけでもないけれど、その境界を越えてきた女性は久しぶりだった。急に、彼女が艶かしく見えてくるものだから、男という生きものは単純だ。顔が赤くなっていたら恥ずかしいな。

「ごゆっくり、味わってください」
「ええ、もう少し冷めたらね」

ふふ、と彼女は笑って洗い物をはじめた。一旦落ち着こう、と僕は煙草に火をつけた。銘柄はキャスターホワイト、ほのかなバニラの風味がコーヒーとよく合う、と思って吸い続けている。

「いいですね、キャスター。あ、今は、ウィンストンか」

洗い物の手を止めず、彼女が話しかけてきた。そう、少し前に、ウィンストンブランドに移行したから、コンビニでキャスターといっても通じない時がある。よく知っているなと、今度はこちらが驚かされる。

「煙草、吸われるんですか」
「少しだけ。コーヒーと一緒に、吸う時があります。煙草を吸う女性って敬遠されるから、あまり言わないんですけど」

でも、コーヒーと煙草は、切っても切れない関係だと思うんです、と言葉を続ける彼女。確かに、煙草なんて吸うような見た目ではないけれど、コーヒー好きなら納得できる。

「ごめんなさい、喋りすぎですね。なんとなく、価値観の合う人だと思って、いろいろ話してしまいました」
「いえ、楽しいです。こちらこそ、仕事の邪魔じゃないかと」
「全然」

心臓の音が聞こえるような気がした。知らない人と、こうやって話すなんてことは、滅多にない。良かったら、もう少し話がしたい。

「きっと、同い年くらいですよね」

彼女の方が、言葉を続けてくれた。

「そうですか?お若く見えますけれど」
「え?嬉しいですけど、うーん、じゃあいくつに見えてるんですか?」

彼女は、急にいたずらっぽく笑った。もう少し、話を続けていたい。無理が出る前に、終わった方がいいのだろうけど。そうだな、せめてコーヒーが冷めないうちに、年齢くらいは聞き出してみよう。難しいだろうか。


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