贋作・風の歌を聴け

「ほんと、世の中ってタイミングだね」

グラスに残った氷をマドラーでかき回しながら、彼女は悟ったような口をきく。カランカラ、カランカラと、軽妙な音をたてながら氷は少しずつ溶けていく。彼女は呆れたような声で「ごめんね」と言った。何が、と聞き返したかったが、面倒になった。今日は少し、飲みすぎた。

彼女と僕はサークルの先輩後輩関係にあたる。実際のところ、それ以上でも以下でもなかった。でも、まわりから噂されるほどには、仲が良かったと思う。よく飲みに連れていってもらって、延々とくだらない男の愚痴を聞かされることも度々あった。僕がふと思い立って動物園に行こうとした時も、勝手についてきたり。時間が合えばランチしにいって、時間が合わなくても無理やり合わせて。正直、もうあとは伝えるだけだと思っていた。

ある日、彼女から「飲みたい」とメールが届いた。「バイトなんで、23時過ぎますよ」「家で待ってる」。家、というのは僕の家だ。僕は大学近くにアパートを借りていたのだが、いつのまにか仲間内で合鍵がシェアされるようになっていたから、もちろん彼女も勝手に入れる。とはいえ、彼女がひとりで僕の家に来たことは、これまでになかった。

バイト先から家までの道、なんとなく早足になってしまった。今日だろうか、今日かもしれない。すこし乱れた息を整えてから、扉を開けた。そこには、髪を乾かしている彼女がいた。

「おかえり、早かったね」
「家主不在の部屋でシャワーなんて、いいご身分ですね」
「いいじゃん、これで酔いつぶれてもすぐ寝れるし」

彼女は冷蔵庫からビールを2本取り出した。

飲めども飲めども、その日はなかなか酔いが回らなかった。彼女の方は、ご機嫌なようだった。

「こんな時に飲んでくれるの、あんたくらいだしね」

こんな時。その言葉は、まるで僕を誘っているようだった。

「何かあったんですか」
「あんたは、私のこと好き?」

唐突、だった。これまで言葉にすることを、おそらくお互いがずっと、意図的に避けていたのに。それを、彼女はいとも簡単に口にした。

「発泡酒と、なんか酒、ありますけど。まだ飲みますか?」

戸惑いを隠せそうになかった僕は、はぐらかすように席を立った。

「うん、じゃあなんか、甘いのつくって」
「はい」

いつかの飲み残しのウォッカと、オレンジジュースと氷を適当に混ぜ合わせる。僕の方は、よく冷えた発泡酒を勢いよく、喉に流し込んだ。鼓動の音が、耳を覆いたくなるほど、うるさかった。

「どうぞ」
「ありがと、これ何?」
「わかんないです、なんか甘いの」
「何それ」

彼女は一口飲んで「甘い」と満足そうにつぶやいた。僕は立ったまま、彼女を見つめていた。何それ、はこっちのセリフだろうと思った。

「何それ、はこっちのセリフでしょ」

つい、心の声がそのままこぼれた。こぼれてしまったのか、こぼしたのか。

「どういうつもりですか」
「いや、一昨日さ、後藤くんに告られたんだよね」

どこでもないところを見つめて、彼女は話しはじめた。

「それで気づいたんだけど、私、今彼氏いらないなーって。なんか、後藤くんもよく飲んだり遊んだりして楽しかったからいいかもって思ってたんだけど、なんていうか、窮屈で。私のこと、好きな人って窮屈なんだよね」

「そうなんだ」と相槌を打つ。発泡酒の炭酸が抜けていく。急に酔いが回ってきたような気がする。僕は彼女の横に座り、もたれかかる。

「だからあんた、私のこと好きだったら、いやだなって」

僕は何も言わずに、彼女の肩に頭を乗せ、目を閉じた。頭の中がぐるぐると回っていた。ひどく、酔いが回っている。でも、鼓動の音は鳴り止んだような気がしていた。

「あんた、一昨日何してたの」
「さあ」

「ほんと、世の中ってタイミングだね」

彼女は呆れたような声で「ごめんね」と言った。何が、と聞き返したかったが、面倒になった。今日は少し、飲みすぎた。


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