贋作・夜は短し歩けよ乙女

「良くないことだと思ってるけれど」と、彼はいつもの前置きをしてから、煙草に火をつける。ゆっくりと、まるで悪びれたそぶりも見せずに煙を吐き出して、満足そうに言葉を続ける。

「歩き煙草はやめられませんな」

にやにやしちゃって、いい大人が恥ずかしくないのかな。まあいいか、別に今日にはじまったことではないし、彼はそういう男だ。コンビニで買った発泡酒のフタを開ける。プシッ、てね。相も変わらず、景気のいい音。切れかかった街灯が点滅を繰り返す。湿気が残る夜、寂れた街並みを歩きながら飲む安い発泡酒は格別で、これこそやめられないと思った。

「しかし君も、色気がないね。こんな時間に、500mlの発泡酒をあおる女なんてさ」

「こんな時間に、わざわざ迎えに来させたのは誰?だいたい…」

喉まで出た言葉を、むりやり発泡酒で流し込んだ。そう、この人はいつもそうだ。私の反応を楽しんでるだけ、相手にするだけ喜ばせてしまう。無視した方がいいんだって知っているのに、彼の言葉は、私の神経の鋭いところをかすめてくる。本当、嫌になる。

彼と出会って、もう4年が過ぎた。少女というほど若くはなかったけれど、まだ精神的に幼かったと思う。片手に甘いカクテルを、もう片方の手で伸ばした髪の先をつまみながら「いい男なんて、そうそういないね」なんて、友だちと飲み歩いていたようなころ。バーの片隅で煙草を咥えていた彼が、大人びて見えた。魅力的だった。

「恋に落ちる」という言葉はよく出来ていると思う。まさしく私は落ちていった。彼と会う時間が愛おしく、彼と会えない時間は退屈で仕方がなくなった。彼がいないと、彼がいないと、という私の生活は、きっと出会う前より豊かさを失って、窮屈で、真っ暗なものに変わっていった。

「来月、結婚する」

彼からそう告げられたとき、私はようやくこの穴から抜け出す梯子を見つけたようにも感じ、安心したことを覚えている。ところがその梯子は、驚くほど脆く、私が足をかけたところでポキリと音を立てて倒れ落ちた。

幸せってなんだろうと、まるで少女のような問いかけは、生活の其処此処に積もったまま、いつのまにか着古したTシャツのようにくたびれていった。好きだったテキーラサンライズは、甘ったるくて飲めなくなった。SNSで見る友人たちの笑顔と、よく似た味だと思った。

「ねえ」

問いかけられた私は、彼の方を振り返る。

「今日くらい、外してもいいかな」

彼は左手をかざし、薬指を立てて見せた。苦くて黒くて、ドロドロの想いが、私の胸に溢れた。惨めな私を守るために、彼を傷つける言葉が喉まで出たけれど、むりやり発泡酒で流し込んだ。違う、この人はいつもそうじゃないか。私の反応を楽しんでるだけ、相手にするだけ、喜ばせてしまう。無視した方がいいんだって。彼の言葉は、私の神経の鋭いところをかすめてくる。

「本当、嫌になる」

切れかかった街灯は、点滅を繰り返す。もう、この人のために流す涙はない。幸せってなんだろう。きっと楽しくて、あっという間に過ぎるような時間のことだろう。きっと、今日みたいな夜のことなんだろう。良くないこととわかっていても、彼は煙草に火をつけた。はやく、家に帰ろう。ねえ、はやく。


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