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麦わら海賊団で一番言語習得が苦手なのはゾロだと思う

以下の文章は、とあるビジネス系メディアの方から、仕事について何か書いてくださいとご依頼をいただき執筆したものです。しかし、なんか書いてたら変な方向に筆が乗ってしまい、「ちょっと……これは…違いますね」ということになり、自分でも、薄々「これは流石に違うだろうな」と思ってはいたので潔くボツにし、noteで発表することにしました。

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外資系企業で約6年働いたにも関わらず、英語が全く話せない。「英語話せない」を自称する人の中には様々なグラデーションがあって、たまに「会議などで問題なくしゃべれるけどネイティブに比べると発音が至らない」レベルの人まで「話せない」と自称していたりするから困る。私の場合、中学英語レベルの文法もかなり危うく、相当簡単な雑談すらも難しい。「英語話せない」自称者の中でも真の話せない寄りである自負を持っている。

専門職採用とはいえ、外資企業もよく私なんかを雇ったものだ。重要な会議でどうしても話す必要がある場合は、通訳担当を入れてもらいそれに頼り切っているのだが、社内で知っている外国人と会ったときはもうニコニコしているしかない。たまにエレベーターで二人っきりになると、気さくな外国人が「Hi! I take~~(何か聞き取れない英語)~~~~… How are you?」とか言ってきて、私は毎回「す、スリーピィ」と答える。「I'm fine thank you, and you?」というあの定型文なら知っているけど、それは実際の会話ではあまり使わないとか聞いたことがあったし、出勤日にそこまで自分がfineだった試しもないし、というわけで、fine以外で私がわかる語彙は「I'm sleepy」か「I'm tired」しか無かった。前に一回、外国人上司に「I'm tired」と言ったら本気で心配されたことがあって困ったのと、「I'm sleepy」と言ったら一回だけややウケしたことがあったので、それ以来アイムスリーピィマシーンと化している。眠いのは嘘ではないけど、多分異常に毎日眠い人だなと思われていると思う。

そんな私も、メールでは比較的英語が饒舌である。なぜなら今は、高精度の翻訳WEBサービスがあるからだ。まず伝えたい日本語を打ち込み、吐き出された英語をさらにコピーして、再度日本語に訳す。そこで日本語的に違和感があった場合、大体はその単語に該当する英語が間違っているので、自然な表現をネットの海からググったり、または過去に英語が堪能な人が送ってきたメールから、センテンスごと引用したりする。最後に単語の用法が一般的かどうかを念のため調べ、完璧(かどうかは私にはわからないが、完璧そう)な英語メールを作り上げる。ここまでコピーアンドペーストを繰り返していると、もはや英語力ではなくネットリサーチ力のみが上がっていくが、それでも文面が出来たときには謎の達成感すらある。これは推敲に推敲を重ねて、なんとか短歌が形になったときの達成感に少し似ている。そして一緒に仕事をした外国人には、対面だと全然しゃべらないくせにメールだと饒舌だなコイツ、と思われていると思う。

私だって、本当は英語が話せるようになったらいいと思っている。だが、英語が話せる人はほぼ全員が「英語が話せるようになるには、下手くそで良いからとにかくたくさん外国人と話せ」と言うではないか。暴論である。それが出来ていたら、こっちだってアイムスリーピィマシーンを6年間もやっていない。

言葉とは、何もない私が世界で唯一持ち得た武器なのだ。学生時代にありもしない悪口を言われたとき、取引先で若い女は不安だから担当を変えてほしいと言われたとき、何も知らない人に「独り身で猫とか飼ったら、一生結婚できないんじゃない?」と言われたとき、私は言葉を、言葉のみを使って戦ってきた。言葉が刀であるとしたら、できるだけ少ない太刀筋で倒すほうが美しい。短歌というものに惹かれたのも、たった三十一文字から爆発的な攻撃力を生み出せることが美しいと思ったからだ。言葉という刃を磨き上げ、百戦錬磨の武士として生きていたのに、急に「下手くそでいいからとにかく話せ」とか言われたって、全く磨かれていないナマクラで不格好に刀を振るうことは、武士の魂がどうしても許せないのだ。そんな言葉を操れない状況というのは、私にとってはアイデンティティを失うことと同義。自分が世界にどのように存在すればいいかわからないなんて、無力で、不安で、耐えられない。無理やり英語を話そうとした日のことは、未だに月に2回は風呂場で思い出してしまうくらいに消えない古傷となっている。

最近ふと、英語が話せるようになるかどうかは、語彙力やコミュニケーション力よりも、「プライドが高くないこと、しかしプライドが強いこと」が重要なのではないかと思うようになった。プライドとは一般的に高い/低いと表現されるが、私は、プライドには高低以外にも、強さと弱さがあると思うのだ(図1)。

図1

プライド、つまり日本語で言えば自尊心で、これは自分に能力があると思う気持ちのことだ。これに対して使われる高い/低いという形容詞は、中央値があって相対的に上か下かを示す概念である。つまり、プライドが高い/低いというのは、必ず「他人と比べて」という指標に基づいている言葉なのだ。だから、プライドが高い人というのは「"他人と比べて"自分には優れた能力がある」と思っている人のこと。プライドが低い人というのは「"他人と比べて"自分には優れた能力がない」と思っている人のこと……とされているが、そうなってくると、見落とされてしまうのは、「他人と比べることにそもそも興味がない人」の存在である。他人と比べることに興味がなかったとしても、「プライドの強さ/弱さ」は存在する。
プライドの強弱というのは、他人と比べた能力の高低を全く加味しない。「信念の有無」とも言い換えられるかもしれない。プライドが強いのは「自分を信じ挑戦し、やり抜くことができる」人のことで、プライドが弱い人というのは、「自分はどうせなにもできないと思っているから挑戦しないし、やり抜けない」人のことである。これを踏まえると正しくは、図2にようになる。

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