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テレパシー/写真に写ること

被写体を始めて1年になる。

写真を撮り始めてからゾーンに入るカメラマンさんの感覚や感性がとても物珍しくて、モデルを始めてからは恥ずかしいよりも好奇心のほうが勝り、写ることが怖くなくなった。そして写った自分をみて、こんな表情をしていたのかと自分に驚くことがある。

カメラマンさんと自分で創る作品なので、お互いある程度テレパシーができる必要があると思っている。

わたしはよく記事の中でテレパシーという言葉をつかうけれど、これは空気を読む、共感し合うといった意味ととても重なる。ただ、相手の心に自分の思考や感覚を寄せるのではなく、あくまでも自分の感情を言葉を介さずに伝え合うことである。

辞書なんかで検索をすると、テレパシーは

相手の心情などを五感によらないで感じとること。精神感応

と定義されている。

だから、テレパシーが得意あるいは相性の良いカメラマンさんとの撮影では顔を右に若干傾けて欲しいときや、腕を動かして欲しいときが、指示をもらわずともわかるときがある。

テレパシーは誰もが使える能力だ。しかし使えることを認識し、使おうと感性の扉を主体的に開いていかなければそれは難しい。

写真に写るということは、否応なしにテレパシーのちからが高まると思っている。テレパシーの量が多ければ多いほど、良い写真がとれるのだ。

どんなに言葉で明確な指示を受けとり、忠実にそのポーズや表情をこなしたとしてもテレパシーを介せていない撮影では「おっ」と息をのむ作品は生まれない。

こんな写真もある。大好きな先生をしながら写真家として活動している方のスマホで撮った投稿だ。

その瞬間、カメラマンさんと被写体がとりたい作品に向けてテレパシーを介する情熱的で緊張感のある時間もあれば、そうでないこともある。

普段の日常の中から家族やパートナー、空や海や川や山、光や動物たちとテレパシーを介しているからこそ「いま撮るんだよ」と教えてもらったかのような写真もある。しの@写真家先生の写真はそんな写真が多くてとても気持ちがよい。

いずれも、わたしは写真に写ることによってテレパシー・・・精神感応がとてつもなく高まったことには間違いない。その分、いろいろなことに気が付きはじめて忙しかったりもするけれど、たくさんの神秘を目の当たりにするようになった。


思い出を残す。切り取る。というよりかは、一枚一枚シャッターを切られる度に上昇していくのだ。

沖縄 (392)

たぶんこの先、わたしたちはより感性的なコミュニケーションを求め、重要とするようになっていくと思う。ここで改めて、「ひとはひとりでは生きていけない」という言葉の意味を感じ始めるだろう。


昔は、衣食住を支え合って生きていく意味で使われていたその言葉が、テクノロジーの発展に伴い、意味を変えていく。

あなたがいるから、わたしを感じられる。

わたしがいるから、あなたを感じられる。

そんなひとたちと一緒に心地よい暮らしや人生を送っていきたい。


最後まで読んでくれてありがとうございました。

#一人じゃ気付けなかったこと  

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