「エモい」

「エモい」とは、いったいどこの誰が生み出した言葉なのだろうか。
おそらく、皆さんも一度は使ったことがあるであろう。この言葉が大変便利な言葉であることは、言うまでもない。

「エモい!」

友達にこの写真を見せたときに言われた。
エモーショナル、つまり情緒的という意味の「エモ」だとしたら、まぁ共感できる。
やはり、便利な言葉である。

今回、私は皆さんに問いたいことがある。
あなたが幼い頃に「エモい」という言葉が存在していたら、日常会話に用いていただろうか?

私が幼かった頃には「エモい」という言葉は聞いたこともなかった。なので、今考えたらアレらはエモいのかと思い返す出来事はかなりある。
しかし、誰しもが体験する幼い頃の記憶たちは「エモい」の一言で済まされていいのか。あの日々は、果たして「エモい」のか。
私たちが目で見た全て、耳で聞いた全て、鼻で感じた全て、手で触れたもの全てに、過去の私はどんな思いを馳せていたのだろうか。

エモい、と言われて思い出したエピソードがある。確か小学校高学年の時の話である。

夏の入道雲を捕まえようと追いかけるように、幼馴染と一緒に、どこに行くのか分からないままただひたすらペダルを漕ぎ続けた。
「どこ行くの?」と幼馴染に聞かれ、「テキトーにどこでもいいよ」と答えた。それすら楽しかった。ドキドキした。なんていう気持ちなのかは、よく分からなかったけれど。
坂道を下れば、自分の汗のニオイと、体温に混じるぐらい温い風の、言葉にはできないけど、「地元のニオイ」が鼻の奥の方を勢いよくくすぐった気がした。
その日はなぜか、家に帰るのが惜しくて惜しくてたまらなかった。夕方5時を知らせるチャイムが鳴って、「もう鳴っちゃった」と思った。
自分の汗のニオイとか、汗だくだったTシャツが少し乾いて冷たくなったような感覚とか、今でも思い出せる。

多分、「なんていう気持ちか分からなかった」というのは、ネオ現代語に置き換えると「エモい」だったんだろう。
五感が、夏に震わされた。当時の私には、当然そんな表現力もなかったわけで、今もあの日のことを割と曖昧な言葉で語っているが、確かにあの日は「感」を揺さぶられたであろう。

ではこれから10〜15年後ぐらい、要するに私に子どもができるあたりの時代、小学生や中学生が「感」を揺さぶられたとき、彼らはどう思うのだろう。どう表現するのだろう。
私が書いたこの文章が、今後残るはずもないからこんなところで言っても無駄かもしれないが、ひとつだけ教えてあげたい。

「その気持ちが分からないままで良い」

きっと新しい体験をするたびに嬉しいような、不安なような、はたまた涙したくなるような気持ちになるだろう。私も小学生の時に同じ気持ちに駆られたことがあるから。
だからもし自分に子どもが出来て、新しい体験をした時に下手に言葉にしようと努力して「エモい」という一言でまとめてみたりはしないでほしい。
これはほんの簡単な例えだが、「夕陽を見て綺麗だと思った」としよう。
きっと、今の私ならその夕陽を見て「エモい!」と言ってしまうだろう。しかし、ひと昔の私であれば「わぁ、綺麗」と、いたって単純な言葉でその胸の温かみを包むだろう。純粋とは、こういうことである。
そう、これでいい。「わぁ、綺麗」だとか、見た通り感じた通りの言葉でいい。
その心は誰にも分からないかも知れないけど、あと少し大きくなれば、なんとなく断片的に言葉にできる日が来るから。

「エモい」という言葉は汎用性も高いし、会話の中で相手に感じたことを伝えるための言葉の中では一番理解しやすい言葉だと思う。
しかし、私たちの時代で死語になってほしいとも思っている。それは、「これから生まれる子供たちにこんな単純な言葉使って欲しくない」とか、そういう意味ではない。
感覚を、自らの言葉に変換してほしい。

日本語は美しい、そして素晴らしい。たった一つの言葉をとっても、その同義語だけで相当な数がある。
「綺麗」「ドキドキする」「悲しい」「不安」
さまざまな言葉の中から、どれでもいいからその人らしい言葉で、その人の感情をみんなに伝えてほしい。私は、多くの人たちのその言葉を知りたい。感情を知りたい。

ここまで、「エモい」という言葉についての私の考えをまとめてみた。
何だかんだ、私も心の声を素直に言葉にできずに結局「エモい」と言うことの方が多い。
ただ、自分がこの文章を書いたことをきっかけに、心が「エモい」と感じたものを、なるべく自分が知っている日本語を組み合わせて文章にしていきたい。

そうすれば、いつか誰かと本当の意味で感情を共感し合えることが出来る気がするから。

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