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脳のデトックス

脳が太ってきたので

絵を描くだけじゃなく
普段読んでる小説ではなく(小説も勉強になることはたくさんある)
哲学の本を材料にして勉強を始めた
マーカーで引いて、知らない言葉調べて
自分の考えてること本に直接書いての繰り返し
まるで母国語以外を学んでるよう



ここから下は本当にデトックス

もがいてもがいて、もがいてる
いつからかわからないけど
もがき続けているわたし

すごく苦しくなった今、を残しておく
たぶんまとまりのない文章になる

20200507.0:52

谷尻誠さん、っていう存在は
なにかわからないものを纏ってて
とても強いのだけれどそれがなにかわからない
たぶんそこに、そのわからない強さに惹かれていくんだろうな、人は


自分がしてないこと、考えてないことを
誰かがしてたらそりゃすごいと思う、真似もする
その人には、その人が考えてることには辿り着くことはできるかわからないけど

料理人が
自分のところで修行したからといって
同じ材料、調理法を真似して全く同じものは出来上がらないから
レシピを持って外に流しても良い、と言う

絵は少し違ってくる
外に流すと転載がある、無断が多い
データにするとそれが起こるから嫌なんです
でも、色んな人の目に触れて欲しいという思いもある
それでデータにしてしまうと矛盾が起こる
もうデータにしてしまったものは後戻りできない
それを、すこし後悔してる


とある友人、
わたしの絵をよく褒めてくれて購入してくれる、そして普段から目に触れるところに置いてくれてる(ありがとう)
「そのステッカーイイね、どこで買ったの?」
と聞かれることがあるらしいんだけど、わたしの存在を教えないらしい
なんで?と聞くと、「自分だけが知ってるって良くないですか?」(ニュアンスはこんな感じだったと記憶してる)って返ってきた
わたしの知らないところでそういうことがあると素直に嬉しいです
人の手に渡ると良い意味で勝手に知ってくれることがある



ちょっと最初に戻ってみる
もがき続けてるって言ったけど
当たり前だけどもがくと溺れる
それを続けてるのか、とここで、思った
それはしんどい、しんどいことを何年も
自分にさせてしまってる
これまであったいろいろなことは
誰かのせいにしてない、自分のせいだと思って
ずっと過ごしてきてる

それは優しさでもあるけど優しさでもなんでもない
自分の周りに与えてる優しさとは全く別物の優しさ


わたし、自分の言葉が嫌いで
大学の卒論書いてるときにゼミの先生に
自分語で書いてる、理解できないと言われて
論文はそりゃ自分の言葉で書いたらダメで
難しいことを誰にでもわかる言葉で書く、というのが正解

自分語、

自分語?

自分の頭から、口から、手から出てる言葉

自分語、、あぁ、この三文字をずっと見てると知らない字に見えてくる

わたしの考えてることは文字に起こすと伝わらないのか、と
下手なだけかもしれないけど、それでも伝わらない

嫌になった、嫌いになった

逃げたわけじゃないけど言葉で伝えることをやめてみた

それが卒制

そうすると、伝わった
言葉をわたし以外から求めてみた
言葉を使わなくても言葉が返ってきた
すごく不思議な感覚に陥ったのを今でも覚えてる

もがき続けるのも悪いことではない
生きるためには自分も、自分の手から生まれるものも息継ぎが必要
その息継ぎも自分のタイミングじゃないと苦しい

人には決められることじゃない

なにがしたい?
今のわたしは息が浅いよ
深く息ができるようになる

行き当たりバッチリ、
わたしは運が良いのか悪いのかわからないけど
タイミングだけはバッチリ


↑この絵の中には一番新しいわたしが居る

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