水の中の少年

※ヘルマン・ヘッセ『デミアン』をモチーフにした作品です。



***

川でおぼれた時のことを、今ではよく覚えていない。

ただ、あのとき出会った、ぼくの生涯の友であり、半身である『彼』のことだけは、きっと何があっても忘れないと思う。

当時のぼくは小学校の4年生で、親からの期待と、クラスメイトへの見栄とに挟まれ、優等生にもなれず、不良にもなりきれず、あいまいな境界で日々を生きていた。

いや、『生きていた』のではない。ただ、どこからもはみ出さないように、日々を過ごしていた――そう思う。

両親はそれぞれ小学校と中学校の教師で、キリスト教に精通し、人を助け、いつも正しく明るい世界に存在していた。ぼくはと言えば、そんな両親を尊敬してはいたが、ぼく自身がその明るい世界で生きることを、どうしても想像できなかった。ぼくには二つ下の弟がいたが、彼もまた天使のように明るく、利発であり、明らかに両親と同じ世界で生きることを運命づけられた存在だった。つまり、家族の中で、ぼくだけが異質な存在であった。

ある日の学校帰り、ぼくはクラスメイトたちと共に川へ遊びに行っていた。4月とは言え、まだ肌寒い気候で、川の流れは速く、今思えば到底川遊びなどできるような様子ではなかった。

「度胸試しだ」

誰かが言った。

ぼくは、本能的にうすら寒い恐怖を感じていたが、次々に靴を脱ぎだすクラスメイトたちを見て、負けた。『ここで川に入らなければ、仲間とは認めてもらえない』という打算が、ぼくの本能を押さえつけた。

川岸にランドセルを置き、靴を脱ごうとしていたぼくは、ふざけ半分で誰かが押した重力に逆らえず、そのまま川に足をとられ、おぼれた。

***

目が覚めたとき、ぼくはひとりだった。

病院のベッドに寝かされ、頭と体はひたすら重く、自分が川に落ちたあとのことは、ほとんど覚えていなかった。

そのうちに医者がやって来て、ぼくを助けてくれたという少年を紹介してくれた。『彼』の名は、かのヘッセの名著から拝借し、ここでは仮に『デミアン』と呼ぶことにする。

実のところ、彼の名前はよくわからないのだ。それについては、また後で触れることとする。

ともかく、ぼくはデミアンをひと目見て、その不思議な存在感に惹かれた。彼のもつ空気は、ぼくの家族のように明るく正しい世界に住むものとは正反対の、しかし悪ではなく、影の、深淵に生きるもののそれだったからだ。

彼はぼくの様子を見て、大げさに喜ぶでもなく、心配するでもなく、ただ微笑んだだけだった。

そのまま、ぼくたちはまるで鏡のように寄り添い、色々な話をした。家族のこと、クラスメイトのこと、本で読んだ世界のこと。彼と話しているとき、これまでどこにいても感じていた、世界からの疎外感が消えているような気がした。彼はぼくの話をただ聞いて、頷き、受け入れるのだった。そうして最後に、「きみは正しいと思う」と静かに微笑んだ。

しばらくして、ぼくの家族がやって来た。彼らは、それが家族の見本であるかのように心配し喜び、涙した。ぼくは、命の恩人であるデミアンを紹介しようとしたが、いつの間にか彼の姿は消えていた。

***

それからの7日間、ぼくは病室で過ごした。デミアンは、学校が終わってからぼくの病室へやって来て、夕暮れ時には帰っていった。溺れてからしばらくの間ぼんやりしていた頭は、彼と話しているうちに、次第にすっきりしていった。

彼の話は、ぼくにとってはとても大人びたものであった。魅力的で魔性的、人間にひそむ影の世界を否定するのではなく、彼はそれを「もともと人間が持っているもの」として語った。理性的、道徳的であれといった、ぼくの両親の語り口とはまるで正反対だった。

彼の語る中でも、ぼくはとりわけ、ユングの自己統合や、キリスト教の中でも異端とされるグノーシス主義に関して興味を持った。むずかしいことはよくわからなかったが、これまでぼくが感じていた疎外感、孤独感の出口が、そこにあるような気がしたのだ。

デミアンと話す間、ぼくは彼に誘われ影の世界へと身を投じ、家族が面会にくる頃には、彼らの属する光の世界へと導かれていった。ぼくにとって家族はちがう世界の人間であったが、その真っ直ぐな愛情を、少しずつ素直に受け止められるようになっていった。

ぼくは、ぼく自身の影の世界を意識した。これまで認めてこなかった世界を、ぼくの一部として受け入れつつあった。影は、実存なくしてはありえない。これまで、家族と友人達の狭間にかろうじて形をとどめていたぼくは、ようやく世界の中で存在することができたのだ。

光の世界と影の世界の境界、ある種の波動のぶつかり合うところ。そこにぼくは存在した。

退院してからも、ぼくとデミアンの交流は続いた。彼は最近、上級のクラスにやってきた転校生で、ぼくが川で溺れたとき、たまたま近くを通ったとのことだった。つまらなかった学校は、彼のおかげで少しは楽しくなってきた。デミアンのもつ価値観に傾倒していたぼくは、以前のように優等生であろうとしたり、無理に不良グループに仲間入りしようとしたり、そんなことはどうでもよくなっていた。

成績に振り回されることもなく、放課後は彼の薦める本を読んで彼と議論をし、知識を深めることがぼくの喜びだった。異端とされるグノーシス主義に傾倒していることを知れば、両親が卒倒しそうだったので、ぼくはそれを秘密にし、彼とぼくだけの秘密にした。

そうしてぼくは、デミアンを真実の友として、4年の年月を過ごすことになる。

ぼくの心には激しい嵐も迷いもなく、ただ彼といれば、自分の存在をはっきりと感じることができるのだった。

***

ひとつだけ、彼がぼくに忠告をしたことがあった。ぼくが初めて、恋をしたときのことだ。

中学校の1年生になり、ぼくは学校近くの図書館へ通うことが多くなった。そこで、彼女と出会った。
出会ったというよりは、ただ「見かけた」と言った方が良いかもしれない。とにかく、ぼくは一瞬で、彼女に夢中になった。

彼女は恐るべき清浄な美しさをもって、ぼくを圧倒した。まさに、理想の体現、そのように見えた。彼女への想いは誰にも言うつもりはなかったが、想いを募らせたぼくは、我慢できずにデミアンに打ち明けた。否、本当は彼に、恋をした自分を認めてほしかったのかもしれない。

だが、デミアンの反応は冷たいものだった。

「ベアトリーチェだ」と彼は言い、ぼくは怒り心頭に発した。ダンテにおける天国の象徴、ヘッセの書いた少年・ジンクレエルが象徴としての恋をしたベアトリーチェ、「きみは、象徴に恋をしたにすぎない」という皮肉である。

殴り合いの喧嘩になり、ぼくたちは初めて、本気で喧嘩をした。ぼくがデミアンに反発したのも、初めてだった。彼は人を愛することができないのだとさえ思った。

その日から、デミアンはぼくの前に現れなくなった。中学に入り、彼とは違う学校に通っていたから、自分から会おうと思わなければ、こんなにもあっけなくひとりで一日を終えるのだと知った。

その間も、ぼくは半ば意地になって、デミアンが「ベアトリーチェだ」と揶揄した彼女への恋を続けていた。出すことのない手紙を何通も書き、図書館で本を読みながら、こっそり彼女を見つめた。想いは募ったが、ぼくはそれで満足だと思っていた。

そうして一カ月が過ぎようかという頃、ぼくは出来心で、図書館を出た彼女のあとをついていった。声をかけようとか、そういう気持ちはなく、ただ少しだけ、これまでよりも彼女に近づいてみようと思ったのだ。

彼女は図書館を出て、まっすぐ歩いていった。いつもそうしているというように、その足取りに迷いはなかった。そして、駅の近くの教会まで行くと、入り口の前に立っていた男と、腕を組んで去って行った。ぼくは呆然として、その後ろ姿を見送った。

デミアンが「ベアトリーチェだ」と言ったことの意味を、ぼくはようやく、心の底から理解した。ぼくは恋をしていたのではない。恋い焦がれるあまり、ベアトリーチェの肖像画を描いたジンクレエルと、なんら変わりはなかった。その肖像画はデミアンであり、また、自分自身であった。ぼくはただ、自らの中にある理想を、投影した像に恋い焦がれていたのだ。それはただの虚像で、手に入るはずもないものだった。

ぼくは家に帰り、彼女へ書いた手紙を、すべて燃やした。

***

それから数日経って、ぼくはデミアンを探すことにした。

あの喧嘩の日から、一目も彼を見ることはなかったが、彼が正しかったと謝りたかった。彼の通っている学校へ行ったが、彼は出てこなかったし、不思議なことに、彼を知っている者もいなかった。

思えばいつもデミアンがぼくの前に現れるばかりで、ぼくからデミアンを訪ねたことはなかった。出会ったころに聞いたあいまいな住所と、彼の苗字を頼りに家を探してみたが、結局彼を見つけることはできなかった。

途方にくれ、ぼくは両親に相談することにした。きっと、ぼくが溺れたときに医者から聞いて、彼の家の正確な住所や、連絡先を知っているに違いないと思ったからだ。しかし、両親の口から語られたのは、予想もしなかったことだった。

ぼくを助けた少年は、ぼくを助ける代わりに流されて、あの日に死んでしまっていた。デミアンが名乗った名前と、その少年の名前は完璧に一致していた。ぼくは混乱し、両親を問い詰めた。

両親は、当時からぼくに記憶の混乱が見られること、ショック状態であったことを理由に、ぼくに刺激を与えることを恐れ黙っていたのだった。その代わり、ぼくの症状が落ち着くまでは、毎年両親が彼の家へ挨拶に行っているという。

信じられないといった風のぼくに、両親は当時の新聞を見せてくれた。そこに写っていた、死んだ少年の写真は、デミアンとはまったくの別人であった。

翌日、ぼくはデミアンを探して、彼と行った場所を次々とまわった。

あのとき入院していた病院、図書館、公園、博物館、小学校……そのどこにも、彼はいなかった。そしてどこにも、彼のいた形跡はなかった。

夕焼けの中、諦めて帰ろうとしたぼくはふいに、目の前に彼がいることに気付いた。突然のことだったが、当たり前のことのようにも思えて、何も声が出なかった。鳥の鳴く声が、やけに耳障りに響いた。

「どこに行っていたんだ」

ようやっと声を出すことができて、ぼくは言った。彼の正体はわからなかったが、一カ月と少し会わなかっただけで、なつかしさがこみあげてきた。

デミアンは、はじめて出会ったときのように微笑んで、

「きみなら、もっと早く見つけると思ってた」

と言った。

ぼくは喧嘩のときの非礼を詫びて、きみが正しかったと告げた。そして、もういなくならないで欲しいと、自分の願いを言った。デミアンはただ、静かにうなずいた。

「はじまりの場所に戻ろう」

彼は言った。

「きみに生まれ変わる覚悟があるのなら」

夜、ぼくとデミアンは、あの川へ行った。

死んでしまおうとしたのではない。ぼくたちはただ、そこから再び生まれ出でようとしたのだ。あの川でデミアンと出会ったぼくは、そうしてまた、彼を失った。


目が覚めたとき、ぼくはひとりだった。そのうちにやって来た医者は、もう『彼』を連れてきはしなかった。

ぼくは本当に、ひとりだった。




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