昨日は色々な出来事があった。 平穏な毎日もそれはそれで好きだが 感情の揺れ動きもまだまだ感じていたい お年頃なのかもしれない^^; 昨日の出来事のうちのひとつに、 コラボ企画のお誘いをしたお相手との ミーティングがあった。 これまで誘われる側、選ばれる側を 体験したくて、そちらの方が 責任も少ないような気がするしいいかな、 と思っていた(割合も高かった気がする)。 でも、その一方に染まれてしまう私は 選ぶことが出来る 決めることが出来る、をすっかり追いやり 誰かに選ば
この世の中には面白いことに 陰陽、ツイの世界が存在する。 これは地球において存在する 3次元の世界で、宇宙には どうやらないらしい。 その中でも今日は 女性性と男性性について気づきを混じえて書く。 私は女性性と男性性について このように捉えている。 女性性▶︎受容や寄り添い 男性性▶︎思考や行動 女性性▶︎自分の中の母親 男性性▶︎自分の中の父親 以前は、実際に両親を責めている感覚になって 向き合いたくなかった部分かもしれない。 両親の影響は大いに受けているとし
奥田民生さんの さすらいという曲 私は大家族番組が好きで ビックダディのテーマ曲?だったので さすらいを聞くと 懐かしい気持ちになります。 そもそもさすらいって言葉の意味は放浪、 放浪は「あてもなくさまようこと」 奥田民生さんはどういう意図で この曲を書いたか分からないけれど 私なりの解釈を書きたくなって noteを開きました。 目的を決めていない旅って、わかりやすく 放浪な気がしていて。 これらが私は人生と重なって聞こえました。 ビックダディの大家族物語に さすらい
今日はもう、自分的ちょっとドキドキの日。 数年前は言われっぱなし、 それに立ち向かうというスタンスで 戦おうとしていた相手と また話す機会があった。 親はおそらく旦那も、きっと お前は好きだなぁ、何度も何度も 縁切った方がいいよ 嫌いなんでしょ? やめた方がいい まあ、止めてもやるだろうけどね と言うであろう、実際言われていた 相手だったので正直迷いもあった。 そもそもなんで話そうと思ったのかというと 今のわたしだとどう見えるのかな?を 体感したかったからだと思う。
誰しも超える力、生きる力 いわゆる生命力を持っているはずだ。 私は、いつしかそれを忘れて 弱い自分を演出する傾向にあった。 なんのために?と考える前に その演出さえも生きる術だったことを 忘れたくないと思っている。 弱い自分というのは、 誰かの支配下にある存在だという定義だ。 今朝も、ヨガの先生と話していた。 奴隷、資本主義、その歴史や制度に 恩恵を受けるものの反発心やそこから生まれた 自分なりの信念がある、ということを。 弱い自分を演出することによって、 使われる
久しぶりに内側を表現してみる。 最後の投稿からは月日が経ち なんだかんだ生きている自分に ありがとうを贈る。 昨年末は自分が怒られる側、、 何かされる側として怯えていることが 多かったように思う。 段々と私にも選ぶ権利、決める権利があり 力があることを馴染ませながら、 今はねばべきや禁止を植え付けられ 作ってきたからなのか、 イライラすることも増えた。 自分の中では、気に食わないことがあり 怒る、わけだが、相手は何も思っておらず ケラケラ笑っている経験はないだろうか?
人のイライラは怖い 大切な人の死も怖い また同じ過ちを繰り返すことも怖い ここに書く前までは 私には怖いことが沢山あった カウンセリングを受けて 自分の心が安心する考え方を 採用していっていいんだと知った 怖い気持ちはたしかにあるけれど それを誰しも超えていくことができる 人間にはその力がある 自身で傷を癒していくことも 自身で怖いを楽しみに変えていくことも 自身で抱えていたものを表現してみることも どれも可能なのだということ。 人はイライラもする それは決して私の
旦那と離れて暮らして1ヶ月半が 経とうとしている。 あっという間だ、、 ボロボロの心身で帰省した11月に 立て直しを図り助けてもらった12月、 振り返ると、初めは、 旦那を支えきった燃え尽きと 私をおざなりにした懺悔と 離れていたいけれど やっぱり温もりを感じたい そんな気持ちの狭間にいたような気がする。 今でも 離れていた方が心地よい関係なのかもしれない そんな感触と でも、やっぱり 傍で温もりを表情を時間を、 重ねる体験を共に感じたい そんな本音がこぼれ落ちる
約3年ビジネスの世界にいたわたしは SNSで魅せるわたし 働いているわたし 仕事が舞い込むわたし 認められるわたし 褒められるわたし BIGになって有名になっていくわたし に、食べられていった部分がある😌 慣れない世界で、よくやってきた🍀 今は、もっともっと深いところの土台を 育んでいる。 一体、 SNSで魅せるわたしは幸せ? 働いているわたしは幸せ? 仕事が舞い込むわたしは幸せ? 認められるわたしは幸せ? 褒められるわたしは幸せ BIGになって有名になっていくわたしは
私の特性として、相手を 力の強い人と設定して見て 力の弱い自分で居続けることがある。 その反対も然り。 力の弱い自分でいる時には 「耐える」ことを続け、怒り泣く。 感じたことがあってもまるでなかったかのように 相手に従えることができるのだ。 力の強い人に設定する相手の特徴は、 指図をする、世話焼き、否定的、口が上手い 痛いところを突くのが上手い、である。 人生の中で、幾度となく出逢う。 姿を変えて現れる。 私は基本的に、わがままで自分勝手で 甘えん坊の寂しがり屋だが、
2024年がはじまり、早々に 震災が起こり、翌日にはまた大きな事故… 何も起こらない通常の 平和な明日を信頼して 大晦日を過ごした人は どれだけいただろうか。 1年を振り返り、また1年のスタートを切り、 また来ると思っていた明日がこなかった 普通にあると思っていた日常が途絶えた そういった人たちもいるだろう。 これを書いている私も、 明日が来る保証など何処にもなく しかし、来るだろう明日に少し期待しながら また目を閉じて布団に入るのである。 家族で笑い合えること 喧嘩
2023年は 兎年:家内安全、景気が良くなる、飛躍 個人の振り返りとしては 「支える」をとことんやり切った1年だった。 ビジネスパートナーを支える 旦那を支える 体調を崩してからは自分を支える もはや、支えるを通り越して やり過ぎてしまったなぁとさえ反省する。 また、それらも わたしを構成するの一部となった年だった。 支えるに夢中で、 「支えられている」ことへの感謝は あるようでないようで( ^_^ ;) 湧き出るあたたかいような 感謝を感じることもあれば、 作業
人間って奥が深いなぁって たのしくなる 「感情」が絡み合うから、 また「感情の定義」がそれぞれ異なるため 面白さが生まれるのだと思う 誰かにとっては、めんどくささにもなり 時には、邪魔と思うものになり だけど、たしかにソレは 私たち人間の「そばにあるもの」だと感じる。 今朝、わたしは予定していた楽しみなことが 達成できずに、ショックを受けていた。 ただ、このショックをそのままに垂れ流しながら 「自分が決めたことを正解にしていこう」と 少し胸を張ったのである。 その
今年の8月頃に 「このままの生活が続くのは嫌だ(立て直したい)」 と心底思った結果、 10月に仕事も健康も夫婦生活も 強制終了となった(´°ω°)チーン 結果、今 こころ▶︎臨床心理士さんの元で積み上げ からだ▶︎受けたいと思った方にヨガ依頼パーソナル しこう▶︎ノートへの書き出し、話す 行動▶︎実家へ出戻り、食住世話になる 無茶しないながらもやってみる、 丁寧にゆっくり、休み休み 夫婦▶︎離れてみる、素直に言葉で伝えてみる この通
クリスマスイブにふと、想うことがあった こんな賑やかな日に、 ひとりぼっちの人はいないかなぁって 自分が幸せで満ちているとき、 裕福で困っていないとき、 私たちはつい、想うことや祈ることを 忘れがちになる もちろん、 自分が幸せで満ちていることは この上なく素晴らしい、 周りも明るくするだろう。 だけど、 わたしは、こころのすみっコに ひとりぼっちのあのこやあのこを 忘れたくないなと思う。 1度目は、自分自身の小さい頃だ。 もちろん、今から記載すること全てが 我が家
人の役に立てるとき 得意なことをいかせているとき 喜んでくれたとき 得意げでうれしい。 けれど、 また必要とされる自分を やり始めるのではないかと 疑いが湧く。 必要とされる自分の何がいけないのか。 その人や対象物にゾッコンに なってしまう自分がいることが怖い。 歯止めが効かなくなる感じ。 これらがあるから安心。 この人がいるから安心。 外堀を埋めて落ち着かせようとすることへの 危機感なのかもしれない。 正常なからだとこころの反応なのかもしれない。 そして、突然、こちらの